『市場の倫理 統治の倫理』

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市場の倫理 統治の倫理

市場の倫理 統治の倫理

この本を読んだのは13年ぶり。最初に読んだのは大学の頃で、生協で平積みになっているやつを買った。当時は、まぁまぁおもしろいな、という程度の感想しかなかったように思う。

この本のことを思い出したのは5年前ぐらい。きっかけは、人間の社会が“贈与(贈与)”と“交換(交換)”で成り立っていて、その区別をもとにした新しい共和主義を夢想し始めてからだ。実家に置いてあるはずが捨てられてしまったようで(同様に捨てられた本が結構あって泣ける)、もう一度買おうと思ったのだけど絶版で、Amazon では中古本が定価の2倍ぐらいで売られていた。なんか悔しいので、そのまま買わずにいた。

ところが、この前ふともう一度 Amazon をのぞいてみると、定価と同じ程度に値下がりしていた。早速購入。

簡単にまとめると、人間の行動原理は“市場の倫理”と“統治の倫理”の2つしかない。で、それは“交換(Trading)”と“採取(Taking)”という人間のふたつの生き方に根差していて、互いに矛盾したり、いいとこどりの“混合”(≒道徳の腐敗)がしばしば行われている。私はたちは、このことに自覚的になる必要がある――といったところだろうか。

犬同士が、1本の骨を別の骨と、公正に、しかも熟慮の上で、交換するのをみた人はこれまで誰もいない。

と言ったのはアダム・スミス(『国富論』)だけど、群れて獲物を狩り、その成果を分配する動物は無きにしも非ずだが、それぞれに獲って、お互いにその成果を交換をすることにより、結果的な分配を達成するのはおそらく人間だけだ。人間はこの能力――市場の倫理――を延ばすことで、見ず知らずの人とつながりあい、豊かになり、より自由で平等な社会を発展させてきた。けれど、“誰かが集めて配る”という統治の倫理が忘れ去られたわけではない。

たとえば、会社というシステムは、ウチに向かっては統治の倫理を、ソトに向かっては市場の倫理を発揮している。会社はソトから収入を得て、それを偉い人から順に分け前をとりながら、末端の社員へと分配していく。ソトに向かっては、互いが互いを平等なパートナーとして認め合い、交易をおこなうことによって利潤を得る。

ただ、それはタテマエであって、巨大な企業はときに独占・カルテルなどに走ってより大きな利潤を得ることがある。これは“誰かが集めて配る”という統治の倫理そのもの。本来、市場の倫理が徹底されるべきところを統治の倫理が幅を利かせるとき、市場は腐敗する。統治の倫理には、メンバーを身内にし、それを分配の単位としてみなす傾向がある。

逆に、ナカに対して市場の倫理が誤って導入されることもある。たとえば、“成果主義”はその典型といえないだろうか。“成果主義”という理屈には欠点がない――ただし、それは市場の倫理において。実際のところ、“成果主義”は上司が部下への分け前をケチるために市場の倫理を使ってるだけで、部下が上司にそれを行うことはできない。結果的に、社内はギスギスとヨソヨソしくなっていく。市場の倫理は見ず知らずのひとを緩く繋げる強力なパワーをもつが、基本的には人間を分断するモノだ。本来、統治の倫理が行われるべきところを市場の倫理が幅を利かせる時、統治は腐敗する。

だからといって、倫理そのものが誤っているということではない。それぞれの倫理は何千年も磨き上げられていて、それぞれお互いの場において論理的に完結している。ただ、前提としている場が異なれば、その効果を失う。平たく言えば、統治の倫理も、市場の倫理も、時と場合によってよかったり悪かったりする。

自由資本主義を批判している人が、その実、資本主義のルールを破る一部の強権的な人たちを批判していたり、古い保守主義を批判する人たちが、その実、優先的な立場を利用して弱者にのみ市場の論理を適用する不実を詰っている場合は少なくない。こういった二つの倫理の混合こそが、腐敗を生んでいる。

しかし、だからといってどちらかの倫理のみを選択するというのも非現実的だ。誰かに従うことを無条件に受け入れることはできるだろうか。親兄弟にまで合理的な判断を強いることが果たして正義だろうか。

結局のところ、僕らにできるのは倫理の混合という悪徳に対して敏感になることしかないんじゃないかな?

さて、この本は大変に面白いので、機会があれば近いうちにもう一度取り上げると思う。