だるろぐ

明日できることは、今日しない。

『文明の誕生 メソポタミア、ローマ、そして日本へ』

文明の誕生 メソポタミア、ローマ、そして日本へ (中公新書)

文明の誕生 メソポタミア、ローマ、そして日本へ (中公新書)

手ぶらで外出たけどなぜかヒマができたので、時間を潰すためにテキトーな明屋書店で買った。そんなに期待していなかったんだけど、割かしよかった。メソポタミアを中心に古今東西の「文明の濫觴」を拾っていて、単なるウンチクとして読んでも興味深いし、自分なりにつながりを考えてみても面白い。世界史の教科書の最初の方って無味乾燥なイメージあると思うけど、こういうのも並行して読んでいればもっと興味をもって学べると思う。

で、読んでて気づいたんだけど、この本の著者、昔読んだシュメール人の新書と同じ著者だった。

daruyanagi.jp

ネタのほとんどがメソポタミアだし、なんか文体にも見覚えがあった。ネタのかぶりはそれほど多くないので、これも併せて読むといいと思う。知識に厚みができて、より身近に感じられる。

ただ、一部説教くさいのところには閉口した。

死刑廃止している国の方が進んでいるのかといえばそんなことはないと思うし(個人的には死刑の存廃なんかどうでもいい話で、死刑になるような犯罪を減らすことに注力すべきだと思っている)、「2アスで私はあなたのものよ!」と落書きした女性が不幸だったとは限らない。まぁ、カネに困ってたのかもしれんけど、貴族の娘が酔っていたずらで書いた可能性だって無きにしも非ずだし、しょうもない色眼鏡で事実に色を付ける必要はない。

まぁ、本の内容はさておき――

結局のところ、文明ってなんだろうな。本書でも指摘されてたけど、文明の定義なんてそれこそ人それぞれだし、もはや論じるのも無意味なことなのかもしれない。

でも、自分なりにあえて定義するならば「宗族を超えた社会(≒共和体、市民社会)を支えるインフラ」なのかなーと。宗族内社会(イントラ宗族)から宗族間社会(インター宗族)へ脱皮するには、いろんなプロトコルとインフラが必要になるよね。

宗族内社会での相互贈与では、贈与を記述しておく必要はない。むしろ細かい端数については黙って起き、有耶無耶にしておくのが礼儀でもある。

しかし、宗族間社会での相互贈与ではそうはいかない。血縁や群れといったガバナンスに担保されない相互贈与のルールは、いつ破られるともわからない。

なので、そうした相互贈与(交換)においては、おのおのが自分が得たもの・与えたものについての“覚え書き”を残しておくようになるだろう。相手がルール(契約)を破ったときに突きつけるための証拠として。最初はおのおのが好き勝手なフォーマットで書いている“覚え書き”も、そうした社会では次第に相互に理解が容易になるよう形式が整えられ、共通のプロトコルとなっていく。これが“文字”の誕生であり、“信用(→貨幣)”の誕生だ。貨幣というのは、貸し借りを分かりやすく表現するためのトークンに過ぎない。

また、信用を維持するための暗黙のルールを明文化した“法律”もやがて誕生する。これは、外からやってくるものや、新たに生まれてくるものに、その共同体で身につけておくべきルール(と、マナー)を教えるためのものだ。その前は“宗教”がその役割を担っていることもある、というか、相互贈与の紐帯を形式化したのが“宗教”なのかなと個人的には思っているので、むしろソッチのほうが本家だな。

というわけで、宗族をまとめるための“宗教”、宗族同士が交流するための“文字(おそらく最初に誕生した文字は“数字”なんじゃないかなー)”や“貨幣”、開かれた共和体のための“法律”は文明に必須の要素だとみなしていいと思う。

しかし、その前提となるのはまず“交通”と“集住”だろう。ルソーか誰かは“自然状態”としてヒトがバラバラに暮らしている状態を想定していたような気がするんだけど、そういう世界では文明は発達し得ない。“交通”のインフラである“”や“道路”、“”(、宿場)、“集住”のためのインフラである“都市”、水道施設、建築なんかも文明の基本要素だろうね。そういえば「文明(Civilization)」は、「城壁の内側≒都市の住民(市民)になること」でもあった。

これらの要素は互いに結びつき合っていて、共進化を遂げてきた。その爆発的な発展過程こそを指して“文明”と呼んでいるヒトもいるみたいだな。それぞれの要素の単なる足し算としてしか“文明”をみないのは片手落ちなのかもしれない。

文化について

「文化」というとき、伝統社会における文化と近代社会における文化では、意味に本質的な違いがある。

伝統的社会

社会的に伝えられる行動様式、技術、信念、制度、さらに一つの社会ないしコミュニティを特徴づけるような人間の働きと思想によって生み出されたすべてのものを含めて、一つの総体としてとらえたもの

マサイ族の若者が「文化」というとき(そういった語彙があるのかどうかは知らない)、同年代の若者のことを想起し、伝統的な制度のもとで、社会がどのように組織され、自然資源がどのように利用されているかを思い致す。

近代社会

知的ならびに芸術的な活動

北ヨーロッパの人々が「文化」というときは必ず、芸術、文学、音楽、劇場を意味している。

贈与および交換との関係

伝統的社会における「文化」は、(相互)贈与のルールにマッピングできる。「文化」とは贈与を介してやり取りされる“何か”が外に漏れ出ないように、外から奪われないようにする枠のようなものであり、その中にいる限り、その恩恵を受ける(借りる)ことができる。

近代社会における「文化」は、カネさえあればだれでも買うことのできる無差別・平等的な商品で、いわばファッションに過ぎない。伝統的社会における「文化」は「ルール」(作法と呼ぼうか?)とワンセットになっているが、近代社会における「文化」はそこからは自由だ。

かつて“no life, no music”というコピーがあったが、近代社会における“music”は別になくて困るようなもので決してはない。つまり、必要なものではない。

もちろん、鼻歌や替え歌、心がたかぶってつい口を出る歌は止められないのは確か。けれど、それは(他者が需要してやまないという意味で)必要なものではなく、(自分にとって抑えがたく必要であるという意味で)必然のもの。これは伝統的社会における“music”であって、カネに代えられないし、カネに代えてもならない。カネに代えることができたとしても、本来付随するべき「作法」までを消費者に強要することはできないので、必然的に低俗な方向へ再解釈されていくことを拒否できない。

ただ、二者に優劣があるといいたいわけではない。「文化」には二つのあり方があり――それは贈与と交換の違いに根差している――、どちらもそれなりの存在理由があり、相互に比較したり、否定しあっても仕方のないものだと思う。――が、限りある命のなかでどちらを身に着けるべきかを考えると、前者に多少の優先度があっていいと感じる。

サブカルチャー、および身に着ける「べき」文化について

このブログで「文化」について言及する場合は、前者の意味で用いることが多いと思う。「芸術、文学、音楽、劇場」などというものは、それをたしなむ人々が“サブカルチャー”と(ときに蔑みを込めて)呼ぶアニメや漫画とそれほど大差はない。

なんというかね、(生来的な)貴族でもない・ただの一般的な市民が、ファッションとして高尚な文化を気取っても仕方がないと思うんですよ。こんなにマイナーな歌を知ってる、古典を知ってる、演劇を観てる、オシャレを知っている。それって、アニソンが歌える、ガンダムのセリフを暗唱してる、『みなみけ』を10回観た、コスプレかわいいってのとどれだけ質的な違いがあるのだろう。

むしろ、僕らのような市民が身に着ける「べき」文化というのは、貴族的な精神――俗にいえばノブレス・オブリージュのようなもの、ちゃんといえばハリントンの“自然的貴族”のようなもの――であり、社会との上質な関わり方なのではないだろうか。

そして、そういうものは二代・三代と積み上げていって初めて芽が出るものだと思う。「京都になじむには三代必要」「江戸っ子は三代続いて江戸生まれでなければならない」なんて言われたりするけど、文化とは本来そういうものだと思う。京都に住むことや、江戸っ子であるということは、「芸術、文学、音楽、劇場」以上に肉々しく文化的なことだ。

平たく言えば、家族や街との関わりあい方として身に着けるべき文化と、個人のファッションとして身に着けるべき文化があるということなのかな。で、“高尚な文化”といえど、買えるものは個人のファッションとしての文化に過ぎないということ。

そうそう、伝統的・近代的「文化」における大きな違いは、そのスケールにもあると思う。伝統的文化は数世代にわたって持続可能でなければならないが、近代的文化においてはそこまでのスケールが求められていない。近代的文化というのは、あくまでも単位が「個人」なのであり、だから自由かつ(先天的な意味で)無差別でありうる*1

経済学と人間の心

経済学と人間の心

追記

もっとはやく「伝」「統」的という言葉の意味に注意しておけばよかった。

ちなみに英語の conventional の語源はラテン語で con(ともに)+venire(くる)で、やはり集団的・持続的意味がある。venire は「veni vidi vici(見た、来た、勝った。)」の故事成語でも有名だね。

*1:逆にいえば、贈与関係は差別を生む。これは重要な視点だと思うから、また改めて。

『市場の倫理 統治の倫理』

市場の倫理 統治の倫理

市場の倫理 統治の倫理

この本を読んだのは13年ぶり。最初に読んだのは大学の頃で、生協で平積みになっているやつを買った。当時は、まぁまぁおもしろいな、という程度の感想しかなかったように思う。

この本のことを思い出したのは5年前ぐらい。きっかけは、人間の社会が“贈与(贈与 - だるろぐ)”と“交換(交換 - だるろぐ)”で成り立っていて、その区別をもとにした新しい共和主義を夢想し始めてからだ。実家に置いてあるはずが捨てられてしまったようで(同様に捨てられた本が結構あって泣ける)、もう一度買おうと思ったのだけど絶版で、Amazon では中古本が定価の2倍ぐらいで売られていた。なんか悔しいので、そのまま買わずにいた。

ところが、この前ふともう一度 Amazon をのぞいてみると、定価と同じ程度に値下がりしていた。早速購入。

簡単にまとめると、人間の行動原理は“市場の倫理”と“統治の倫理”の2つしかない。で、それは“交換(Trading)”と“採取(Taking)”という人間のふたつの生き方に根差していて、互いに矛盾したり、いいとこどりの“混合”(≒道徳の腐敗)がしばしば行われている。私はたちは、このことに自覚的になる必要がある――といったところだろうか。

犬同士が、1本の骨を別の骨と、公正に、しかも熟慮の上で、交換するのをみた人はこれまで誰もいない。

と言ったのはアダム・スミス(『国富論』)だけど、群れて獲物を狩り、その成果を分配する動物は無きにしも非ずだが、それぞれに獲って、お互いにその成果を交換をすることにより、結果的な分配を達成するのはおそらく人間だけだ。人間はこの能力――市場の倫理――を延ばすことで、見ず知らずの人とつながりあい、豊かになり、より自由で平等な社会を発展させてきた。けれど、“誰かが集めて配る”という統治の倫理が忘れ去られたわけではない。

たとえば、会社というシステムは、ウチに向かっては統治の倫理を、ソトに向かっては市場の倫理を発揮している。会社はソトから収入を得て、それを偉い人から順に分け前をとりながら、末端の社員へと分配していく。ソトに向かっては、互いが互いを平等なパートナーとして認め合い、交易をおこなうことによって利潤を得る。

ただ、それはタテマエであって、巨大な企業はときに独占・カルテルなどに走ってより大きな利潤を得ることがある。これは“誰かが集めて配る”という統治の倫理そのもの。本来、市場の倫理が徹底されるべきところを統治の倫理が幅を利かせるとき、市場は腐敗する。統治の倫理には、メンバーを身内にし、それを分配の単位としてみなす傾向がある。

逆に、ナカに対して市場の倫理が誤って導入されることもある。たとえば、“成果主義”はその典型といえないだろうか。“成果主義”という理屈には欠点がない――ただし、それは市場の倫理において。実際のところ、“成果主義”は上司が部下への分け前をケチるために市場の倫理を使ってるだけで、部下が上司にそれを行うことはできない。結果的に、社内はギスギスとヨソヨソしくなっていく。市場の倫理は見ず知らずのひとを緩く繋げる強力なパワーをもつが、基本的には人間を分断するモノだ。本来、統治の倫理が行われるべきところを市場の倫理が幅を利かせる時、統治は腐敗する。

だからといって、倫理そのものが誤っているということではない。それぞれの倫理は何千年も磨き上げられていて、それぞれお互いの場において論理的に完結している。ただ、前提としている場が異なれば、その効果を失う。平たく言えば、統治の倫理も、市場の倫理も、時と場合によってよかったり悪かったりする。

自由資本主義を批判している人が、その実、資本主義のルールを破る一部の強権的な人たちを批判していたり、古い保守主義を批判する人たちが、その実、優先的な立場を利用して弱者にのみ市場の論理を適用する不実を詰っている場合は少なくない。こういった二つの倫理の混合こそが、腐敗を生んでいる。

しかし、だからといってどちらかの倫理のみを選択するというのも非現実的だ。誰かに従うことを無条件に受け入れることはできるだろうか。親兄弟にまで合理的な判断を強いることが果たして正義だろうか。

結局のところ、僕らにできるのは倫理の混合という悪徳に対して敏感になることしかないんじゃないかな?

さて、この本は大変に面白いので、機会があれば近いうちにもう一度取り上げると思う。

権威と権力

近代共和主義の源流―ジェイムズ・ハリントンの生涯と思想

近代共和主義の源流―ジェイムズ・ハリントンの生涯と思想

ハリントンは、権威と権力とは明確に区別されるべきものと考え、ホッブズはこの両者を同一視していると批判する。……

ただ、ハリントンのこの用語法と、両者の区別はからなずしも妥当ではない。

「権力」を単に「強制力」へ読み替えてしまうと、そうなってしまうのかもしれないが、個人的にはこれこそがハリントンらしい、興味深い視点だと思う。

二つの原理 - だるろぐ では、ハリントンのいう二つの政治的原理を検討した。

古代の知恵 近代の知恵
精神の善(the good of the mind) 財産の善(the good of fortune)
叡智、知恵、勇気などの生得的/後天的な徳(virtue) 富(riches)
権威(authority)による支配 権力および支配権(power of empire)
理性的な法および共同全にもとづく統治 情念および私的利益にもとづく支配

前者にマキャヴェリ、後者にホッブズを割り当てる分類には僕もあまり納得がいかないし、単純すぎるという指摘にも頷ける。けれど、あくまでもポイントは「権力」ではなく、その「権力」の源泉にある。

古代:社会(贈与=権威)に埋め込まれた経済(交換)

古代において、「権力」の源泉は集団における“贈与(互酬)”にあった。等価交換を基本した個人対個人の長期的・継続的な直接“贈与”が集団的なものへと発展すると、次第に“贈与”は誰かを“媒介”にして行われるようになる。その“誰か”は“徳”を以て選ばれる。

古代中国では、“徳”をもつものが“宰”を行った。“宰”とは「宰相」ともいうように、政治(まつりごと)を取り仕切ることを言うが、その原義は「肉を公平に分けること」であるという。ここでは“公平性”という“徳”をもつ者へ一度“贈与”が集められ、そして適切に分配することこそが“宰”の役割であり、政治の本質とみなされていた。

本来、「儒」はこうした“王”や“宰”たる者が備えるべき“徳”を説くものであり、徳を備えたものこそが“王”や“宰”たるべきであるという「徳治主義」を説く。“贈与”を支配するものは“権力”をもつに至るが、それはあくまでも“権威”にもとづいていなければならない。

近代:経済(交換)に埋め込まれた社会(贈与=権威)*1

しかし、近代では“贈与(互酬)”に代わって、貨幣を媒介とした“交換”のプレゼンスが高まってきた。

“交換”は“贈与”によって築かれた“権威”のピラミッドを突き崩してしまう。というのも、“交換”は少なくとも理念の上では「対等な個人による自由な契約」にもとづいており、権威主義とは相いれないからだ*2*3

“交換”によって財を築き、社会に対する影響力を勝ち得ること――財による権力は、もちろん古代にもみられた。しかし、これは「権威なき権力」として侮蔑され、うまく抑圧されていた。どこの社会でも「士農工商」に似た身分システムが敷かれていて、その則を超える事例はごく限られた例外だった。しかも、その事例そのものが“王”による“贈与(恩典)”にほかならない。“交換”世界から“贈与”世界への移籍が行われることはあっても、“交換”世界が“贈与”世界を飲み込む兆候は何ひとつ見られなかった。

近代へのスイッチ

では、なにが世界を古代から近代へと推し進めたのか。

おそらく、西洋では似たような規模の“贈与=権威”、つまり王国や帝国がいくつもあり、それらが互いに争っていたからだろう。

“贈与=権威”は“交換”や、そこから派生する徳(自由主義、多文化主義、発明、進歩)を基本的に否定する。しかし、戦争ともなれば別だ。相手を打ち負かすためには、少しだけ蛇口を緩めなければならない。そして、平和になれば再び蛇口を閉じる。「戦争が技術を進歩させる」とはこのことだ。

東洋には長期間にわたって同じような規模の王国・帝国が併存することが少なく*4、蛇口の開け閉めを安全に何千年と続けてこれたが、西洋では少し緩めすぎてしまった。そして、とうとう蛇口を開けすぎて、閉まらなくなってしまったのが、ハリントンやヒューム、アダム・スミスの時代というわけなのだろう。

マキャヴェリは中世に“古代”の精神を発掘・称揚する一方で、“近代”の手口を発見し、勧めた。ハリントンはそれを継承しつつも、“古代”と“近代”はいっしょくたにできない、全然構造が違う、マキャヴェリはそれに鈍感すぎると考えていた。だから、ハリントンにとってはその構造を明らかにすることと、もう閉まることのない“蛇口”とどのように付き合っていくかが大事だった。

*1:「経済に埋め込まれた社会」はポランニーによる表現

*2:だから、専制君主はそれを抑圧するか自分の手で管理しようとしてきた!

*3:逆に言えば、経済嫌い、新自由主義嫌いなひとは、自分が「権威好き=だれかをコントロールする/誰かに管理されるのが好き」でないか自問したほうがいい

*4:春秋戦国時代はギリシア世界と同じぐらい思想が進んでいた。北夷南華時代は南北で文化的に断絶しすぎて、戦争はあったが商業交流がなく、あっても歳幣などを通じた権力間交流にとどまっていたのではないか

新しい共和主義

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試みに、政治的自由と経済的自由というベクトルをもうけてみた。

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孤立した個人は、サルの自由をもつ(四つの自由 - だるろぐ)。しかし、ヒトは共同できるほうがより多くの自由を獲得できるはずだ。古典的共和主義が重視したのは、この自由だ。とくに古代ローマにおいては、コミュニティ(贈与社会)においてどのようなプレゼンス(よい影響、献身、犠牲)を与えられるか、同時に個人においてはどれほど自分の欲を抑えられるか(清貧、諦念)が思想的課題だった(ストア哲学)。

しかし、実際の歴史においてそれは束の間の奇跡であって、中世では専ら宗教と封建権力によって贈与社会が洗練・高度化されていった*1。その間、歴史の進歩は一進一退であったけれど、基本的に経済的な力を蓄えた下層階級が、より多くの政治的権力を獲得するという過程を経て、次第に政治的・経済的な地位を向上させていった。

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14世紀以降、西洋は新しい局面を迎える。一つはルネサンス(古典復興)。古典的共和主義がもう一度思い出され、宗教・封建権力が否定される。ここでの主役が、ニコロ・マキャヴェリだ。彼は権謀術数(マキャベリズム)の祖として記憶されるに過ぎないが、もっと思い評価を与えていいと思う。ルターに代表される宗教改革は、彼の路線の延長に過ぎないとさえ思う。

もう一つは、18世紀からおこった産業革命。それまでの列強は大きな「ムラ」にすぎなかったが(「マチ」と「ムラ」 - だるろぐ)、列強が軍拡・経済競争に明け暮れた結果、それまで「ムラ」を「ムラ」として縛り上げてきたルールを解き放ち、利己心を肯定するようになった(「なぜ産業革命が起こったのか?」 - だるろぐ)。

ここで、古典的共和主義の限界が解き放たれる。贈与より交換、社会に埋め込まれた経済より経済に埋め込まれた社会(交換社会)へと移行していく。

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そこでうまれた二つの潮流のうちの一つが、ルソーに代表される政治的自由主義リベラリズム)だ。リベラリズムは、大陸合理主義に根ざしている。つまり、すべてのヒトには等しく理性が備わっている。ゆえに、その理性を働かせさえすれば、人民はある一つの結論――一般意思――へ到達することができる。リベラリズム“左翼”の台頭は、既存の古典的共和主義を時代遅れな“右翼”へと貶める。

男性と女性は平等であるべきだ。
子供も大人と等しく人間として扱われるべきだ。
人種間に不平等があってはならない。
生まれによる差異、努力によって解消されない社会的差別は不公正である。

「個人」はかけがえのない「個人」であるがゆえ、無条件に尊重されるべきだ。共同によって社会をなした「個人」は、政治的自由を得て、もう一度自由な「弧人」へと還る。

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もう一つの潮流は、古典的共和主義の復古が生み出した産物――市民社会――を土台に、個人の経済的自由を肯定する運動だ。その元祖はなんと言ってもアダム・スミスだ。ただ、彼の後継者の一部はその土台を忘れ、専ら経済的な自由を主張するようになったが。

リベラリズム(および共産主義)は、そんな経済自由主義のカウンターパートでもある。経済自由主義は個人を抑圧している。ゆえに、規制されるべきだ。そして、そのカウンターパートとして現れたのがリバタリアリズムといえる。経済的自由主義の抑制は、全体主義につながり、むしろ政治的自由を喪失させる。所有と選択の自由こそが、重視されるべきだ。

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リベラリズム・リバタリアリズムは、どちらも現代が得た思想的果実といえる。では、そのどちらかに組するべきであろうか。必ずしもそうはいえないのではないか。

経済的自由主義抜きでは、現代で僕らの享受する地位は得られなかっただろう。しかし、政治的自由主義から得た恩恵も少なくない。では、どちらもが共存できる道はないのだろうか。

“新しい共和主義”は、それを模索する。経済的・政治的自由のどちらもが、古典的自由主義を等しく土壌としており、しかしそれを若干ないがしろにしているのを憂う。その点で、“新しい共和主義”は保守的だといえる。ただ、旧来の保守主義で留まることは潔しとはしない。経済的・政治的自由によって得られた成果は正当に評価し、取り入れるべきだ。そして、経済的・政治的自由主義が本来の目標を見失って滞留したとき、それを批判できる理論的根拠を手に入れなけばならない。

*1:東洋では封建権力が発達したものの、宗教の発達がみられなかった。そこで、知的矛盾(哲学 vs 宗教、中世の普遍論争などはその点で無駄ではなかったのだと思える)が爆発することなく、封建社会の元で緩やかに経済が発達していった。故に、18世紀までは東洋のほうが豊かであった

「マチ」と「ムラ」

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孤立した個人が少しの制約と引換に、より多くの自由を求めて共同生活をはじめる。これが「ムラ」だ。「ムラ」では狩猟・採集、農業(第一次産業)が営まれている。「ムラ」の語源は、おそらく「群れ(ムレ)」だろう。移動する「ムラ」が「群れ」で、定住した「群れ」が「ムラ」なのだと思う。

「ムラ」はルール(規範)によって閉じている。ゆえに相互贈与が外に漏れ出さず、豊かさ(≒可能性)を積み上げていくことができる。

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「ムラ」と「ムラ」は、商業と略奪*1によって結ばれている。この二つは表裏一体であるらしいが、ここでは表の顔である「商業」のみを扱う。「略奪」方面に興味があれば、本書が面白いと思う。

匪賊の社会史 (ちくま学芸文庫)

匪賊の社会史 (ちくま学芸文庫)

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古来、商業は「商(行商)」と「賈(店売り)」にわかたれるが、その違いは"固定性"にある。とくに「賈」は市を成し、「マチ」を形成する。やがて「マチ」は、「ムラ」を支配する。「ムラ」の内部にも権力ピラミッドが存在するが、「マチ」はさらにそれを束ねるモノになる。「マチ」では「ムラ」と「ムラ」の相互交換、「マチ」と「マチ」の相互交換が行われる。相互交換は、相互贈与を結びつけ・解体し、より大きな豊かさ(≒可能性)を実現していく。

「マチ」は「ムラ」と「ムラ」を水平に結びつけるものでありながら、それを垂直方向に支配する存在でもある。ここに「マチ」の二重性がある。

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産業革命を経ると、「マチ」は産業(第二次産業)をも抱え込むようになる*2。やがて、「マチ」はサービスとネットワーク(第三次産業)も手にし、「ムラ」という「ムラ」、そして「マチ」を飲み込んでいく。これは“拡大された都市”とでも呼ぶべきもので、飲み込んだ「マチ」や「ムラ」を平坦に、そして外の「マチ」や「ムラ」に対しては支配的に振舞う。

現代の都市には、「マチ」と「ムラ」が混在している。しかし、支配しているのは「マチ」の倫理で、「ムラ」の部分がそれに抵抗しているようにも見られる。よく観察すると、それはとても興味深い。いつも行くお店は、「ムラ」的? 「マチ」的? あなたは解放的だけれど薄っぺらい「マチ」的人間? それとも心を開きにくいけれど情を重んじる「ムラ」的人間? たぶんどの部分もそれなりにもっているのだろうけれど、自分がどちらかというとどちらであるか、考えてみるのもいいのではないかと思う。

*1:これが恒久的に行われる場合は「征服」と呼ばれるだろう

*2:産業自体は家内制手工業として「ムラ」で発生した。しかし、これは次第に労働力豊かな「マチ」で行われるようになった。その過程で、「ムラ」から「マチ」への労働人口の引き剥がし(囲い込み)なども行われた

『貨幣の思想史―お金について考えた人びと』

貨幣の思想史―お金について考えた人びと (新潮選書)

貨幣の思想史―お金について考えた人びと (新潮選書)

一章ずつ感想を書こうかと思ってたのだけど、ブログを書く時間がとれないまま、そのまま読み終えてしまった! モーゼス・ヘス、ヴィルヘルム・ヴァイトリング、マックス・シュティルナーの思想に触れられたのが収穫かな。あと、ケインズの解釈は面白かった。この本を買うのにわざわざ貨幣を出してよかったと思う。

ただ、同意できるところはあまりなかった。

貨幣を必要としない関係を作り出すことによって、貨幣の領域を縮小させていく、そして貨幣を単なる交換財の地位にまで引き下げることがここでの課題である。

貨幣を必要としない関係を作り出すとは、自分の用語で言えば、贈与経済への回帰、使用価値を中心とした経済への回帰とでもなろうか。経済学がもっぱら「交換価値の秩序」を明らかにすることに終始する、とくにリカードゥから現在の主流は経済学に至る流れを批判しているのだと解釈した。ここは同意できる。

価値は固有のものとして存在するのではなく、関係が価値を生み出す。

その通り! ここも同意できる。

でも、この2つの言説は矛盾している。なぜならば、貨幣は固有のものとして存在するのではなく、(交換)関係が貨幣を生み出すからだ。交換は、貨幣なしには行えない。なぜなら、交換における媒介を貨幣と呼ぶのだから。交換関係を、計量可能なものとして記述したのが貨幣だ*1

たとえば、Aのお米1kgとBの味噌300gを交換するとき、Aにとってお米1kgは貨幣であり、Bにとって味噌300gは貨幣だ。自分から出ていく価値は、もはや使用できないがゆえに使用価値をもたない*2。これから得るであろう価値の尺度、つまり交換価値としてのみ働く。Aの交換脳のなかでは、味噌300gが「お米1kg」と記述されているはずだ。ほら! その場限りの特殊なものではあるけれど、これはもう貨幣。あとは、お米と味噌のどちらが一般的貨幣の座を占めるか、という覇権の問題にすぎない。僕なら、お米が勝つ方にお米を3kg賭ける。

ともあれ。

結局、交換=貨幣なのであるから、「貨幣の領域を縮小させていく」ということは、交換を縮小させることに等しい。また、経済の本質は交換を媒介とした分業、財の社会的な分配であるから、すなわち、交換の縮小は分業と分配の縮小に等しい。試しに明日から交換なしで暮らしてみるとよい。「貨幣の領域を縮小させていく」ことの重大さが体感できるだろう。

「貨幣を必要としない関係を作り出す」こと、贈与経済へ目を向けることは大事だ。それには同意できる。けれど、交換世界は「止まっているためには走らなければいけないんだ」の世界。いまさらだれも、そこから降りることはできない。降りたとしても、かなりのモノを失ってしまうだろう*3。それを幸せだといえるのは実際にそれを経験した人に限られるし、その人が語ったとしてもそれはあくまでも「主観的」なモノに過ぎず、普遍的なものとして語れるものではないと思う。

とはいえ、エピローグはかなり面白い。貨幣、交換経済の虚構(フィクション)性があぶり出される秀逸なエピソードだ。

*1:その意味で、貨幣はコトバだ。「貨幣は商品語をしゃべる」by マルクス。この発見はシビれる

*2:もたない、という表現こそが誤解のもとか。では、「纏わない」とでも言おうか

*3:ただ、それを軽減させる方法はあるかもしれない。実はそれが、このブログのテーマのひとつでもある。

アテにするということ。

「交換」世界は、強制力の伴った信頼関係でつながっている。それを僕は「アテ」と呼ぶことにしている(「私は頼られるのは好きだが、あてにされるのは嫌いなんだ」 - だるろぐ)。一方、「贈与」世界は「タヨリ」でつながっている。小さな世界のルールである「タヨリ」から、大きな世界のルールである「アテ」への脱皮。それが「近代」だと思うのだけど、でも、「タヨリ」は完全に排除されたわけではない。「アテ」は確かに「タヨリ」を断ち切る部分をもつけれど、何かの拍子に「アテ」が失われたとき、人はその基礎として横たわっていた「タヨリ」を再び見出す。たとえば、大震災の折に「絆」が見直されるように*1

そんなことを何年も考えていたのだけど、少し整理をしてみたいので、昔のツイートをサルベージして検討してみることにした。

関係を計算可能にすると、「投資」が可能になる

「タヨリ」は「アテ」にならない。

企業(Enterprise)は、周りの経済環境をアテにした冒険だ。そして、みながみな、互いのアテ通りに動けば、その冒険は必ず成功する。ただし、アテが断ち切れた時は、言わば「負のアテ」が発生し、冒険のツケが回収されていく。

みんな手形の裏書ってしたことある? 手形の裏には、それを手にした人の名前が書きこまれていく。もし万が一手形が決済されなければ(不渡り)、裏に書いた名前の順に、支払い義務が発生するんだよ。信用が収縮して、ツケが逆回収されるのを体感できる。

「"商人の信頼"(=「アテ」)はメタ規範ゲーム的な仕組み」というのはいろいろ言葉がおかしいので、今はスルーしてほしい。でも、いつか説明することになると思う。

交換社会=契約社会

交換社会は、契約社会と言い換えることもできる。

契約こそが、世界を広くした!

「タヨリ」になるのはいい人、「アテ」にできるのは信用できる人

「タヨリ」はなる、「アテ」はできる。言葉ってホント面白い。

贈与世界(古代、田舎、肉親・友人関係)においては、「タヨリ」になるかどうかが人格の尺度だ。逆に、交換世界では「アテ」にできるか、つまり約束を・期日通りに・期待した品質で・確実に果たすことができるか、が人格の尺度だ。

この二つをごっちゃにするのは、あまりよくない。友人関係に契約を期待してはダメだし(約束が破られても罰を与えてはいけない)、取引関係に義理人情を持ち込むと、関係から抜け出せなくなってあとで後悔する。

社会的プレゼンスと責任

何のことを指して言っているのか忘れたが、交換社会においては「事業規模が大きい=影響が大きい」ので、責任もそれに応じて増大すると考えられている。

かつてはこれを贈与社会の道徳を交換社会にあてはめた、間違ったモノの見方ではないかと疑っていたのだけど、「アテ」の文脈で考えればそうでもないと思った。デカい企業は、その一挙手一投足がそれぞれ大きな影響を与えるので、「アテ」の倫理でその行動を縛ろうと考えることにも一理ある。逆にいえば、その縛りがない分、無名な小企業=胡散臭いと思われるのも、ある程度仕方のないところだ。自分たちのコントロールが及ばないのだから。

あんまり意味が分からないが、大企業へのチェックが激しいのは、別に正義感がゆえではない、ということだと思う。

「経済学を学ぶと利己的になる」ってホント?

個人的にはそんなことはないと思う。ただ、経済学は「交換学」であって「贈与学」ではないので*2、交換の倫理をベースにものを考えるところはある。「贈与学」に近いのは、むしろ法学のほうだろう。贈与倫理の切り捨てが、「利己的」ととられることは十分ありうる。

交換学は、無歴史的・普遍的・一般的な「である」を記述する。だから、社会科学と呼ばれる。
贈与学は、歴史的・時空に関して特殊的な「すべき」を記述する。だから、交換学とは一部において対立する。

けれど忘れてはならないのは、特殊なしに一般はありえない、ということ。経済学ではよく「冷めた頭脳と温かい心」というけれど、後者は忘れられやすいし、仮に忘れていなくても前者に比重を置きすぎていると批判されることが多いのは自覚しないといけない。

何が言いたいのかわからないが、おそらく「経済合理性はアテのリスクを十分織り込んでいなかったり、タヨリの部分を軽視しているので、真の合理性とは言えない」と言いたかったのだと思う*3

新しいアテが古いアテを蹂躙する

古いものは、常に情緒的。新しいアテが登場すると、古いアテはタヨリの衣をかぶって生きながらえようとするようだ。

でも、それ自体はキライじゃない。我慢がならないのは、それがいつのまにか「生き残るべき」と主張されることだ。アカの他人に向かって「べき」と言えることは、実際のところ、世の中にそんなに多くないはずでござる。

*1:「絆」は「タヨリ」の別名だ。「絆」を保つことはそれ自体が目的で、手段にしてはならない

*2:個人的にはその双方をカバーすべきだと思う

*3:知らんけど

「私は頼られるのは好きだが、あてにされるのは嫌いなんだ」

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夏休み。遊んで、食べて、寝て、笑って、宿題のことなどさっぱり忘れてしまっていた内田は、千秋に宿題を写させてくれとせがむが、すげなく断られる。それでもあきらめずにマコちゃんをけしかけてさらなる説得を試みるのだが……千秋は眠そうな声でこう突き放す。

「私は頼られるのは好きだが、あてにされるのは嫌いなんだ。」

みなみけ おかえり』より

「頼り」と「あて」の間にある、微妙な差異をうまく表現していて(さすが、秀才派の千秋!)興味深い。

「頼り」と「あて」を隔てるモノ――お約束としての

「頼り」と「あて」の間にある差異とは。もう少し千秋の言葉を聞いてみよう。

「マコちゃん、耳貸しな。」

「――私だって鬼じゃない。内田がよーく反省したら、答えを見せてやろうと思っている。」

要するに、千秋にとっては“内田の反省”というプロセスが重要であるようだ。千秋は日頃から内田をバカだと思っている*1ので(しかし、そこが嫌いなわけではないようだ)、今さら態度が改まるとは期待していない。なので、その求める反省も、所詮「お約束の」「儀礼的な」ものにとどまる。実際、内田が「うぅ……そんなぁ」と困った態度を表すと、あっさりノートを貸している。

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「内田。丸写しはダメだ。適当に間違えろよー。」

「頼り」と「あて」を隔てるモノ――言葉の意味から

ブログなのでここで“はい、隔てるモノはある種の「儀礼」でした!”で済ませてもいいのだけど、今日はもう少し掘り下げてみよう。今度は言葉の意味から、というわけで、辞書を引いてみる。とはいえ、オンライン辞書だけど。

たより【頼り/便り】
1 (頼り)何かをするためのよりどころとして、たよっているもの。頼み。「地図を―に家を探す」「兄を―にする」
2 (便り)何かについての情報。手紙。知らせ。「―が届く」「風の―に聞く」
縁故。てづる。「―を求めて上京する」
4 都合のよいこと。便利なこと。
「凄涼たる夜色…落ち行くには―よしと」〈竜渓・経国美談
5 あることをするきっかけ、手がかり。
「彼の幽玄なる仏道をも窺い見るべき―となる」〈逍遥・小説神髄
6 つくりぐあい。配置。
「簀子(すのこ)、透垣(すいかい)の―をかしく」〈徒然・一〇〉

たより【頼り/便り】の意味 - 国語辞書 - goo辞書

まずは「頼り」。個人的には、3の“縁故”(人と人との特別なかかわりあい。よしみ。つて。 えんこ【縁故】の意味 - 国語辞書 - goo辞書)という意味が目に留まる。1の例文「兄を頼りにする」も多分に“縁故”の匂いを纏っている。今でこそ“息苦しさ”を感じさせることもある言葉ではあるけれど、交換経済がまだたちあらわれていない、贈与経済中心の古代・中世において、“縁故”は重要な“手がかり”であり、“都合のよいこと。便利なこと”であったに違いない。

あて【当て/宛】
[名]
1 行動の目当て。目標。目的。「―もなくうろつく」
2 将来に対する見通し。先行きの見込み。「借金を返す―がない」
心の中で期待している物事。頼り。「父からの援助は―にできない」
4 借金のかた。抵当。
「此指環…を―に少し貸して頂戴な」〈魯庵・社会百面相〉
5 (他の語の下に付いて)
①保護するためにあてがうもの。「ひじ―」「すね―」
②ぶつけあうこと。「鞘(さや)―」
[接尾](宛)名詞・代名詞に付く。
1 配分する数量・割合を表す。あたり。「ひとり―二個」
送り先・差し出し先を示す。「下宿―に荷物を送る」

あて【当て/宛】の意味 - 国語辞書 - goo辞書

一方、「あて」のほうは肉肉しさを失って、少し機械的・合目的的・計量的な雰囲気を帯びる*2。さらには“抵当”などという交換経済の用語そのままの言葉まで飛び出す始末だ。

これ以上はめんどくさいので、結論を披露してしまおう。

「頼り」とは、比較的強固な相互贈与(互恵)の循環関係が成り立っている間柄(たとえば“縁故”)から自分の利益を引き出すことをいう。

引き出した利益はいずれ(縁故へ)返さなければならないし、利益を引き出すときは“それとなく(儀礼)”行われなければならない。注意深く前例を踏襲し、もしそれを踏み外した要求であるのならば、相手が自分の“手段”になっていないこと、日頃の“よしみ”の延長であることを証明しなくてはならない。

相互贈与の関係とは、義理や人情の関係と言い換えてよいかもしれない。それ自体が目的であり、価値でなくてはならず、たとえば金銭を得るための手段であってはならない。少なくとも、名目上はそうでなければならない。

しかし「あて」は、そうではない。「あて」においては、他人を手段化することが正当化されるし、むしろ奨励される。自分もそのように扱われることに納得しており、合意がすんでいる。

そのため、「あて」の世界では、だれかがやってくれることをあて(期待、見込み)にした行動(信用、投資)が可能だ。みながみな、それぞれのあてに応えられたなら、あての連鎖は広がり、その循環は過熱する。しかし、どこかでその連鎖が断ち切れれば、たちまち退潮していく。だから、あての世界では連鎖の維持が重要視される。契約が、人間性に優先する。

タヨリの倫理、アテの倫理

市場の倫理 統治の倫理

市場の倫理 統治の倫理

まだまだザックリとした議論に過ぎないのだけれど、この話は『統治の倫理 市場の倫理』にもつながるんじゃないかなぁ、と気づいた。たとえば、軽く整理すればこんな感じになるだろう。

タヨリ アテ
社会 小さな社会 大きな社会
経済 贈与経済 交換経済
相手の手段化 ×
貸借の計量化 ×
紐帯 友情、義理、人情 所有権、契約、カネ
考え 前例主義、儀礼主義、序列主義 発明の尊重、契約主義、平等主義
(統治の倫理) (市場の倫理)

この本は大学1回生の頃に読んだのかな? 「統治の倫理と市場の倫理は混同すべきではない」というメッセージをもう一度読み直してみたい。身近にもよくあるでしょう? 贈与経済に生きる人と、交換社会のプロトコルを話す人が行き違ってしまって諍いになったり。

千秋はカンと頭が良くて、けれど冷徹というのではなく、ちゃんと人と人との関係を大切にしたいと願ういい子なんだと思う。だから、内田に宿題を課すという些細なできごとに問題を発見することができた。けれど、いつか大人になって、社会という不気味で巨大な機械と戦わなくちゃいけない。社会は内田のようには聞き分けがよくない。

みなみけおかわり 1 (期間限定版) [DVD]

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https://www.facebook.com/daruyanagi/posts/3481183823088

*1:マキちゃん、姉の夏奈、内田のラインを一括りに“バカ”と表現している

*2:接尾辞としての“あて”にまで注目を促すのはさすがに我田引水か

価値を生む“双頭の蛇”

米著名投資家ウォーレン・バフェット氏の率いる米投資会社バークシャー・ハザウェイが、米自動車大手ゼネラル・モーターズ(GM)の株式を新たに取得したことが15日分かった。小売り大手ウォルマート・ストアーズやIT(情報技術)のIBM株も買い増した。欧州不安がくすぶる中、バフェット氏の「米国依存」が鮮明になっている。

バフェット氏、米国株に積極姿勢 GM株取得  :日本経済新聞

まぁ、これでGMの株が上がったりするんだろう。

そうやって負け知らずに儲ける*1ので、バフェット氏は「投資の神様」と呼ばれる。この評判(≒権威)が、次の儲けにつながる。

似たような構図は、日本にもある。

だから、勝間さんはより多くのファンを獲得できる。きっと、何かのきっかけでこの信仰(≒権威)が崩れない限り、次の本も成功するのだろう。あまりこの手の本は好きではないが、そう考えると少し興味が出てくる。

こうやって儲けることは別に悪いことじゃない。おそらく、本人に悪意はない。ただ、冷静に考えればちょっとおかしい「循環」ができあがっていて、それ自体が価値を生み出している。交換されることで貨幣たりえ、貨幣であるがゆえに交換される、貨幣=交換の循環関係にも似ている。この関係は、世界の富の増大に一役買っている。

関連して、こんなことも思い出した。

ドイツの経済技術省の大臣に新しく就任した「von und zu Guttenberg」氏は由緒ある名門の家系の出身で、正式な名前は「Karl Theodor Maria Nikolaus Johann Jacob Philipp Franz Joseph Sylvester Freiherr von und zu Guttenberg」というそうだ。氏が大臣に就任するという話が出始めたころ、Wikipedia の同氏に関するエントリが編集され、名前に「Wilhelm」が付け足され「Karl Theodor Maria Nikolaus Johann Jacob Philipp Wilhelm Franz Joseph Sylvester Freiherr von und zu Guttenberg」に変更された。

大手新聞やインターネットサイト、またTV番組などドイツ内外のメディアはこの Wikipedia のエントリを参照し「Wilhelm」入りの間違った名前を使い氏に関する報道を行ったそうだが、そうこうしているうちに Wikipedia のエントリは再度編集され、名前に「Wilhelm」が含まれるという証拠を求めると共に、元の正しい名前に戻された。この時点で既に多くのメディアが「Wilhelm」入りの名前で記事を報じていたため、ソースを提示するのは容易く、Wikipedia が誤った事実を掲載し「信頼できる情報源」がこれを報じ、それをソースとして誤った事実を「情報源のある事実」として Wikipedia に掲載できるという循環が生まれてしまったとのこと。

Wikipedia をメディアが引用し、誤情報に「情報源」が発生 | スラッシュドット・ジャパン IT

メディアとWikipediaが互いに参照しあって、新しい「(偽りの)事実」が生まれた。その様は、まるで互いに尻尾を食い合う“双頭の蛇”のようにも見える。

*1:不敗ではないようだけど