『哲学ファンタジー:パズル・パラドックス・ロジック』
執筆日時:
哲学ファンタジー:パズル・パラドックス・ロジック (ちくま学芸文庫)
- 作者: レイモンド・スマリヤン,高橋昌一郎
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2013/07/10
- メディア: 文庫
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限界三部作シリーズ(『感性の限界――不合理性・不自由性・不条理性』 - だるろぐ、そのほかの感想は旧ブログの喪失とともに失われた)の著者・ 高橋 昌一郎氏による“5000 BC and Other Philosophical Fantasies”の和訳。先の三部作もこのレイモンド・スマリヤンの著作にかなり影響されたようで、一部の討論の雰囲気は結構似ていたりする。残念ながら、わが愛しのカント主義者は出てこなかったが(それっぽい人はいなくもないような)。
読後の感想は――口当たりはよかったけれど、実際、自分がこの本のどこまでを理解した・できたのか、さっぱりわからない。なんだか煙に巻かれた気分。とはいえ、少し感じるところもあった。
たとえば、僕は自分の考えていることを他人にちゃんと伝えるのは難しいし、そもそも伝えられると期待するのは無駄だとつねづね思っている。なので、Twitter で“小難しい”ツッコミをもらうのは、実のところ好きじゃない。
「あー、なになにだなぁ」
「それは間違っています」
「そうですか」
「こういう意味で言っているんですよね? だとしたら違います」
「(知らんがな。)多分これこれ、こういう意味で言ったのだと思います」
「あ、あなたはこう表現しましたね! それって実は心の中ではこう思っている証ではないですか?」
「(知らんがな。)どうでしょう、そんなつもりはないけれど、思っているのかもしれません」
Twitter ではだいたい思ったことをテキトーにつぶやいているだけだ。なのにマジメにツッコまれても困る。だいたい、定義や文脈を共有できていないのに論理的な討論をしてもしょうがない気がする。論理実証主義者的にいえば、僕はいつも“無意味な”ことをつぶやいているに過ぎない。いや僕にとっては“意味”があるのだけど、それはただその場・その時・自分の中でだけの話であって、きっと普遍的な“意味”ではない。
この本でもながながと“論理的な討論”が交わされているけれど、その多くにそれほど普遍的な意味があるようには思えない。だいたいなに言ってんだかさっぱりだし。いや、理解できなくはないのだけれど、“自分の世界のコトバ”にうまく置き換えて呑み込めないんだよね。道徳家あたりがブチ切れて叫んだりしているのも、そういうところにいら立ちを感じていたんじゃないかなぁって思う。プロタゴラスもソクラテスとの会話でブチ切れていたけれど(『プロタゴラス―あるソフィストとの対話』 - だるろぐ)、二人が抱く“世界観”があまりにも違うのだからしょうがない。
これが現実の話だと、相手の気分を害したくない(けど、自分が折れるのはもっとイヤな)ので、
「そうですね、あなたの意見は正しい。こういう風に解釈したら僕の意見とも大いに共通しますしね」
などと“解釈の相違”ということで妥協しようとするのだけど、この本の登場人物はそういうことを一切しないからカオスだな! でも、そこが面白かった。
結局、討論というのは“世界観の差異”を感じて自分の“世界観*1”に対する反証を見出したり、相手の“世界観”に触発されて自分の“世界観”を広げたり研いだりするキッカケにしたり、そういうために行うものなのかもしれない。
論敵の間違いを証明しようとするよりも、どのような意味で彼が正しいのかを見つける努力をせよ。
というのも、実はそういうことを言っているのかなぁ、とちょっと思った。
――とはいえ、年がら年中噛みつかれても困るのだが。
*1:≒とりあえず自分のなかで(ほぼ)無矛盾な論理体系+感覚・認識・解釈のフレーム