『プロタゴラス―あるソフィストとの対話』
執筆日時:
プロタゴラス―あるソフィストとの対話 (光文社古典新訳文庫)
- 作者: プラトン,中澤務
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2010/12/09
- メディア: 文庫
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この本はだいぶ前に買ったはずなのだけど、カバンに入れ忘れたり、机の裏に落っこちていたりで、読み進めるのを2度も中断させられた。途中の詩歌の解釈の話があまり面白くなかったこともあり(その前と後ろは面白い!)、なかなか内容が頭に入って来なかった感じがする。ただ、翻訳自体はすごく読みやすくて、高校生の頃にこんな本があればよかったのになぁ、と心底思った。
さて、『プロタゴラス』の内容も、かつて読んだ『メノン』と同じく、“徳(アレテー)”についてだった。
“徳(アレテー)”とは教えられるものなのだろうか。少なくともプロタゴラスのような職業教師<ソフィスト>はそのように主張しているが。
聞く人を酔わせる雄弁で「徳は教えられる」と主張するプロタゴラスと、眠りを破るカミソリのような鋭い論理で「徳は教えられない」と言い張るソクラテスがいい感じの対照になっていて、いい。
結局はソクラテスがプロタゴラスを打ち負かすのだけれど、結論は「徳とは知恵である」になっちゃって「あれ? 知恵だったら教えられなくね?」「だな。どっかでミスったな」みたいな話で終わる。読者的には「なんだそれ?」って感じなのだけど、たぶん、結論にではなく議論の過程にこそ意味があるということなのだろう、と思う。
それにしてもソクラテスはイヤな奴だな。少しは先輩に花をもたせてやってもいいのに。そんなんだから処刑されちゃうんじゃないか。
メモ
個人的には“徳(アレテー)”の敵として“快楽”ばかりがクローズアップされることに違和感を感じた。徳を損なう原因として、もちろん快楽は重要な位置を占めるのだけど、普通は“必要”の比重のほうが大きいのではないだろうか。たとえば窃盗は徳に叶う行為ではないけれど、それは快楽で行われるよりも、しばしば必要に迫られて行われるのではないか*1。
ギリシャの民主主義は、奴隷に支えられた市民による民主主義であって、そこでは“徳”を身につけるための前提条件の大部分――「倉廩実ちて則ち礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱を知る」(『管子』牧民)――がクリアされてしまっている。だから、快楽との対決を論じても、眼の前に迫る必要に取り組む必要はない……のかもしれない。
まぁ、なんというか、西洋の文献を(翻訳で!)触れるとき、「徳」という言葉がいまいちしっくりこない
これには洋の東西で“徳(アレテー)”が指す領域が異なるということもあるのだけれど、その下層には、あくまでも西洋では“貴族的”なニュアンス――選ばれし者がもっておくべきもの――が漂うのに対し、東洋ではあくまでも民衆を統御するに足る人格的な魅力・迫力というイメージ――選ばれるために必要なもの――が強い。
読んでいてそんな気がした。
メノン 「徳(アレテー)は人々を支配できることであり、これ以外の何ものでもありません。誰にとってもあてはまるただひとつの答えを、あなたが求めるというなら、ですが。」
これにシンパシーを感じたのも、東洋的な“徳”の意味――の半分――を汲み取っているからかもしれない。
というわけで、そのどちらも汲み取りつつも、自分の中で“徳”について一応の仮説を設けておこうと思う。
“徳”とは、衆を抜きん出る能力と、衆を統合する魅力のことを言う。“徳”を備えた者はその能力ゆえに“地位”(共同体のハブ)を獲得するが、その“地位”によって得られる利益を詐取・独占することは、かえって魅力を損なうことになる。よって、それを極力辞退しなければ“徳”も“地位”も維持できないだろう*2。
共同体において、共同体のために実利のないことを自ら買ってでる厄介事請負人、それが“徳”を備えた者であり、本当の市民なのではないだろうか。
まぁ、そんなたいそうなことじゃなくても、学校の掃除の時間でサボらないとか、ちょっとしたことを誰かのためにブログへメモしておくとか、そういったことをできることが“徳”だと思うんですよね。
そういうのをソクラテスに聞いてみたかった。どうですかってね。
*1:窃盗症(クレプトマニア)という病気もあるらしいが。http://blogos.com/article/66588/
*2:逆に、巨大な利権を飲み込んで気前よく分配する“徳”もあるようだ。漢の高祖然り、田中角栄然り