『メノン ―― 徳について 』

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メノン―徳(アレテー)について (光文社古典新訳文庫)

メノン―徳(アレテー)について (光文社古典新訳文庫)

徳(アレテー)についての、ソクラテスとメノンの対話を収めたプラトンの初期作品。メノンは名門出身、プロタゴラス仕込みの弁論術を修めた口舌さわやかなイケメンだけど、この数年後、クナクサの戦い - Wikipedia で命を落とす。弁論に終始して本質の考察に踏み込まないメロンにたいして、ソクラテスがプチギレるのが本書のハイライト(違

徳について

かつてこのブログで、「徳ってなんなのか、よくわからんなぁ」ということを書いた(徳について - だるろぐ)けど、それに対するイメージをメノンから多くもらった(ソクラテス先生、ごめんなさい!)。

メノン 「徳(アレテー)は人々を支配できることであり、これ以外の何ものでもありません。誰にとってもあてはまるただひとつの答えを、あなたが求めるというなら、ですが。」

それに答えて、ソクラテスはこう問い詰める。

「しかし、メノン、子どもにも同じ徳があるだろうか? また奴隷にも、主人を支配できるという同じ徳があるのかね? つまり、ここでいう“支配する”者が、支配しながらまだ“奴隷”でもありうると、きみは思えるかな?」

もちろん、そんなことはない。よって、「徳とは人々を支配できること」であるという定義は捨てなければならない。メノンはその後も、「美しいものをよろこび、力をもつこと」「よいものを欲し、それを獲得できること」「正義を伴ういかなる行為」といった、あまりイケていない定義をもちだし、ことごとく論破されてしまう。

結局、メノンは「世の中にはよいものが存在し、それを願望し、獲得できる人間は限られている(そして、自分はそのうちの一人であるはずだ)」という考えに凝り固まっている。だから、ソクラテスが「男の徳、女の徳、奴隷の徳、子どもの徳といったふうに徳を切り刻んだりせず、もっと普遍的な徳そのもの本質を考えよう」と言っても、なかなか“自分の立場”からは抜け出せない!

でも、これって“徳”という言葉が立場によって意味を変えるものだってことかもしれない。そういうことに関しては、過去にメモをした。

逆に言えば(逆でもないが)、“徳”という言葉を持ち出すとき、そのひとはある理想的な社会、多くの場合は現在の社会とそれが要請する立場の遵守を主張しているのかもしれない。道理で保守派と相性がよいわけだ。

話は少しそれるけれど、「徳とは人々を支配できること」というメノンによる定義は、政治の文脈に限ればなかなかすぐれた定義であるようにも思う。

自分だったら「支配できること」といわずに、「人々の自発的な従属をえることのできる能力や気概、態度」とでも言いたいところだけど。力で人々を支配することは、徳の定義に含めたくないからね。「権力が徳に先立ってはならない」というのは古代中国の儒家も教えていたことだ。

あるいは「社会的な尊敬を勝ち得ること」といってもいいかもしれない。それは結果的に権力だか権威だかを得ることにつながるだろう。

ちなみにソクラテスの答えはこうだった。徳というものは、よくわからんが確かにあって、備わるときは“神的運命”によって備わる。そして、

われわれが徳そのものについて明確なことを知るのは、「いかにして徳は人々に備わるのか?」ということ以前に、「徳は、それ自体として、一体なんであるか?」の問題に着手するときなのだ。

要するに、“無知の知”に戻るというわけだ。徳ってなんだ? と思うことそのものが、徳を知るための第一歩。

少しはぐらかされた気分だ!

探求のパラドックスと想起説

本書のもう一つのポイントは、探求のパラドックスと想起説だった。探求のパラドックスとは、以下のようなものだった。

「それで、ソクラテス、あなたはどのように、それ(徳)がなんであるか自分でもまったく知らないような“当のもの”を探求するのでしょうか」

まったく知らないものを知ったところで、それがそれであるとどうやって知るのだろうか?

それに対して、ソクラテスは想起説で答える。魂はすべてを知っていて、人はそれを思い出しているだけ。なんだかプラトンみたい!(書いたのはプラトンだしなぁ……)

「あなたは優れた話をされたように思えます、ソクラテス。どうしてそう思えるのかは私にはわかりませんが」
「あぁ、そうだろう。だってわたしにだってどうしてそう思えるか自分で知らないまま、すぐれた説だと思っているのだからね、メノン」

おい!