「三人の子どもと一本の笛」
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一本の笛をめぐって言い争っている三人の子どもがいる。
アンは楽器を弾くのが得意で、三人のなかで唯一笛を吹くことができる。
その腕前は確かで、彼女の吹く笛の音が一番美しい。
ほかの二人もそれは認めている。ボブは貧乏で、三人のなかで唯一おもちゃを買い与えられていない。
笛を与えられて一番喜ぶのは、きっと彼だろう。
ほかの二人もそれは認めている。カーラは手先が器用で、三人のなかで唯一笛を作ることができる。
その笛を作ったのも彼女で、実際それには何ヶ月もかかった。
ほかの二人もそれは認めている。さて、笛は誰にあげるべきでしょうか。
リバタリアンは、カーラに笛を与えようとする。というより、「もともと」笛はカーラのもの(所有権)であり、それを奪うのは不正義だと考えるからだ。もしかしたら、筋金入りのマルクス主義者もそのように考えるかもしれない。労働の対価は、労働者に帰するべきだ*1*2。
けれど、カーラはこれからいくらでも笛を作ることができるだろう。もしくは、すでに何本も笛を持っていたら? その場合、「所有権」に固執するのはあまりよい考えではないかもしれない。厳密な意味でのパレート改善*3にこだわらないのならば、カーラから笛をとりあげてアンやボブに与えることで社会全体(ここでは三人の子どもの)の幸福量を最大化させることができる。少なくとも、功利主義者ならばきっとそのように考えるはずだ。
また、カーラにあげることをそもそも肯定しない考えもありうる。たとえば、古代の哲学者アリストテレスは自分の能力が十二分に発揮される状態こそが善であると考えた(目的論)。笛の善とは、美しい音色を響かせることだ。であれば、アリストテレス主義者にとってはアンに笛を与えるのが正解といえる。みんなでアンの吹く笛の音を楽しもうではないか。それが一番素敵だ!
一方、経済的平等主義者(多くのリベラリスト)ならば文句なしにボブに笛を与えろと主張することだろう。ボブが笛を吹けないのは先天的能力が原因ではない。もともと笛を手にすることのできない境遇にあったからだ!
これは 「正義」に至る二つのアプローチ - だるろぐ における「先験的制度尊重主義」の問題点の一つ、“唯一の先験的合意の実現可能性”に該当する。論理的にスジが通っていて誰にとっても文句なし(ア・プリオリ)に正しい方法は、一つではないかもしれない。
- 作者: アマルティアセン,池本幸生
- 出版社/メーカー: 明石書店
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個人的な解釈
誰に与えるべきか
僕は、カーラに与えるべきだと思う。カーラが作ったものは、カーラのものだ。これが大原則。
けれど、カーラにはアンやボブに笛を与える自由がある。カーラは公共心(利他性)を発揮してもよい。カーラは自分の能力をみんな<公共>の役に立てることができる。もしかしたら、アンに笛を吹いてもらって、それをバックに新しい笛を作ってもよい。また、ボブに笛をあげて、そのかわり苦手な算数の宿題を教えてもらうのもありだろう。なるべくなら、カーラにはそのような選択をしてほしいと願う。
しかし、それは自発的意思に寄らなければならない。間違っても、大人がカーラから笛を奪って、アンやボブに与えるようなことがあってはならない。大人がしてもいいのは、自分で作った笛を棚に飾っておく以外の選択肢をカーラにそれとなく示してあげること*4、アンとボブにはカーラの気持ちに応えてあげるように躾けること*5だけだ。
政党と政治
正しい方法はいくつもある。しかし、政治を行うにあたっては方法を一貫させるべきだ。
笛の場合はリバタリアニズムを採用、りんごの場合ではリベラリズムに転向、みかんの場合はアリストテレス主義を適用、といったその場限り・行き当たりばったりの方法では、全体の政治運営に不整合が生じ、誰もが納得できない状態に陥る。日本の場合がそれだ。
本来、政党はそれぞれ、今までに挙げられた「正しい方法」、つまり理念を体現しているべきだ。国民はよく熟慮し、自分の考えに一番近い理念を選択する。そして、自分の理念、政党を支持する。政党は、ほかの政党と論議を重ね、自分の理念に叶う限りでよりよい方法を模索する。それが理想的なあり方ではないだろうか。
この寓話について、“新しい共和主義”の立場から言えるのは以上だ。