『私たちはなぜ税金を納めるのか: 租税の経済思想史』

執筆日時:

私たちはなぜ税金を納めるのか: 租税の経済思想史 (新潮選書)

私たちはなぜ税金を納めるのか: 租税の経済思想史 (新潮選書)

仕事の記事は今朝早起きして書き直したけれど、ブログは書き直す気になれない……本を読み返しながらかなり書いたのに、あれをもう一度書けだなんてヒドすぎる。

というわけで、本書のテーマを一言でまとめちゃうと――税は国家を超えられるかってことだと思う。税金っていうのは、もとは地主が地代をとるように、王が私的に――自分の暮らしを賄うために――かけていた。これは租税というより、どっちかっていうと貢納にあたるので、本書の目的ではない。本書では租税は近代から始まるとしているが、個人的には古代共和主義にさかのぼってもよいと思う。君主制と共和制の違いは、支配するのが何人か、ということだけではない。むしろ、税金が私的か公的か、税金のあり方こそに本質的な違いがある。

話が逸れた。この話はまた今度にしよう。とりあえず、目次を紹介する。

  1. 第1章 近代は租税から始まった
  2. 第2章 国民にとって租税とは何か
  3. 第3章 公平課税を求めて
  4. 第4章 大恐慌の後で
  5. 第5章 世界税制史の一里塚
  6. 第6章 近未来の税制

第1章では、戦争に伴う宮廷の資金難から税金が徐々に公的な意味をまとっていく場面が描かれる(「家産国家」から「租税国家」へ)。王はみずからの領地経営だけでは戦費が賄えなくなったので、都市の商工業者からも税をとりたいと考えた。しかし、彼らは王の支配民ではなく自由民だ。勝手に税をとるわけにはいかない。そこで議会を招集して必要になるごとに同意を得るのだが、これが次第に恒常化していく。都市の商工業者の側も、ただ税を払うだけでなく、政治への参画を求めた。これが近代的な共和主義の始まりで、その背景には「国家+市場=国民国家(政治経済 political economy)」の成立があるというわけ。

その「国家+市場=国民国家」のうち、国家的な側面はドイツの官房学派経済学(第2章)で、市場的な側面はイギリスの自由主義経済学で確かめられる(第1章)。前者は国家をひとまとまりの有機体ととらえ、後者は国家を市場の残余的存在とみなした。

第3章では舞台をアメリカに移し、より公平な課税(?)である“所得税”の発展が論じられる。揺籃期の租税は、もっぱら間接税(関税とほんの少しの内国消費税)に頼っていた(アダム・スミスはこれを批判している(第1章))。しかし、アメリカでは大恐慌(と世界大戦!)を経て、間接税から直接税への大転換が行われる(第4章)。法人税や所得税は、累進課税によって不平等を是正できる。このような性質から、租税は政府を介して(平等を望むという)民意を市場に反映させるためのメカニズムとしての意味を持つようにもなる。

第3の課税の意味は時が経つにつれて重要性を増していくが、企業はすぐに国家の枠を超えて活動するのが当たり前になっていく。「国家+市場=国民国家」の枠組みは崩れ、「(国家<市場)=グローバリズム」の時代を迎えるというわけだ。そこで、5章・6章では国際課税が論じられる。トービン税とか、国家間の租税協定の話とか。

疑問点

個人的体験で言えば、国家というの基本的にロクなことをしないと思う。なので、小さな政府論――自由主義経済学――に魅力を感じるし、直接税よりも間接税を支持する(もう景気がよくなることはないので、税金の話も不景気前提で。 - だるろぐ)。直接税重視派は、国家というあり方に対して楽観的過ぎると思う。租税の第3の意味は重要だと思うけれど、それが正しく使われているとは自分には思えない。

たとえば、エコカー減税を挙げよう。

クルマはある程度金持ちでなければ買えない。であれば、そこを減税するのは金持ちに利することに繋がらないだろうか。エコカーの普及を後押しするという政策の意義は正しいと思うが、減税があってもなくても買い換えたであろう人にとっては、本来徴収されるはずの税がポッケに残ったのと変わらない。これはクルマが買える人に対する恩典(所得移転)であると言えないだろうか。エコポイントでも何でもいいけれど、このような税制は本来重視すべき下流(といっていいのか知らんが)層ではなく、より票に結び付く中流層に媚びた政策のように思う。こういう時はむしろ、古いモノをもっていることに対して課税を強める(増税)べきだ。

あと、消費税は消費を抑えるので悪だというが、それはどうだろう*1

むしろ逆の発想で、加熱しがちな消費――金融取引!――に対して“レールに砂をまく”のに使えると思う。物品やサービスの購入だけに消費税をかけるのではなく、貨幣・金融システムの利用料として、あらゆる取引へ確実に、低額の課税を行うならば、税負担というのはもっと軽くなるのではないだろうか。加えて――これは夢想に近いけれど、そういった普遍的な消費税(取引税)の税率がダイナミックに変えられれば、景気の変動をより強固にコントロールできるかもしれない。

もう一つ、国家を超えたもの、たとえば国際連合のような超国家組織が租税権を得たら*2、世界はどうなっちゃうのだろう。

租税権があれば、それはもう国家であると思う。国連が国家になったら? 世界は平和になるのだろうか。それとも、超国家によって僕たち国民は抑圧されてしまう? 超国家から見れば、直臣としての国民は国家なわけで、僕らは国家の国民のそのまた国民、陪臣に過ぎない。よりちっぽけな存在になっていくのかもね。超国家がエコカー減税みたいなことをやるのって、あんまり想像したくない。

*1:本当に格差を是正したいのならば、自分は贈与税を引き上げるべきだ。贈与は本人の努力に寄らない、継承・拡大する格差であり、一代の経済活動で生まれた、ある程度努力に起因する格差よりも悪だと思う

*2:租税で経費が賄えれば国連分担金問題なんかなくなるよね! 万歳!