『贈与の文化史―16世紀フランスにおける』

執筆日時:

贈与の文化史―16世紀フランスにおける

贈与の文化史―16世紀フランスにおける

目次

  • 1. 贈与の精神
  • 2. 贈与の観光と公共の時間
  • 3. 贈与の観光と社会的意味
  • 4. 贈ることと売ること
  • 5. 失敗した贈与
  • 6. 贈与、賄賂、そして国王たち
  • 7. 贈与と神々

著者のナタリー・デーヴィスという人のことは知らなかった。アメリカの歴史学者で、16-17世紀のフランスとジェンダー論を専門としているという。この本を手に取ったのは単に“贈与”というタイトルが目についたからに過ぎなかったけど、いい本に巡り合えたと感じた。

どちらかというと、本書は“贈与”のスタイルを類型化してまとめるのではなく、“贈与”のスタイルをまるでトランプを操る手品師のように、次から次へと巻き散らかしていく感じ。でも、なんとなく、そのつながりがあぶりだされてくる。

社会的基礎としての“贈与”

「今は贈与について新しくエキサイティングな勉強をしていますが、それは私有財産制が嫌になっているからよ」

(あとがきより、1981年のインタビュー)

デーヴィスのこの言葉、なんとなく好きだ。個人的に私有財産制にとかく楯突くつもりはないけれど、“贈与”を離れて“交換”(つまりは“経済”)のみを論ずることはできないのではないかとは思っていた。嫌だから、なのではなく、もっと知りたい、ので勉強する。

“交換”の基礎は、“贈与”にある。

大規模な災害によって物流がマヒしたり、ハイパーインフレーションによって貨幣が機能しなくなったとき、立ち現われるのはやっぱり“交換”の記憶に引きずられた相互“贈与”――物々交換――だったり、対価をアテにしない協力――絆、“贈与”!――だったりする。また、純粋な“交換”が行われていると一般に信じられている分野でも、“贈与”に起因する慣習が根強く息づいていることが少なくない。取引関係一つとってみても、平等で公平、なんてことはほとんどない。互酬関係の強さと長さによって明確な差別があり、ピラミッド型の権力関係が築かれているのが普通だ。

“贈与”から“交換”へ

では、“贈与”とは何か。

簡単に言えば、助け合いの仕組み、とでもなろうか。初対面のひとは恐ろしい*1。でも、徐々に打ち解けていければ大抵そうでないことは理解し合えるし、いざというときにはタヨリになる。贈る・受け取る・返礼するという互酬の三大義務は、人間関係を強固にし、公共的な空間を作り出し、“孤”でいる場合よりもヒトを自由にする。

その一方で、“贈与”は人を縛る。

誠実さという定めでわたしをつなぐ結び目(贈与、義理、絆、しがらみ)は、社会的拘束(交換、契約)という結び目よりもはるかにきつくて、重苦しい。自分で自分を縛るよりも、公証人に縛られるほうが、よほど楽なのである。

モンテーニュ

こうした新しい自由を求める気風ですら、“贈与”は封建的な道徳、宮廷における儀礼、教会の権威という形をとって縛り上げてきた。それがとうとう破れるのがちょうど14世紀から16世紀あたりで、宗教改革・市民革命・産業革命を経て、後戻りを許さない決定的なものとなる。

ポランニーが指摘したように、「経済(交換)が社会(贈与)に埋め込まれているのではなく、社会(贈与)が経済(交換)に埋め込まれた」のが今の世界。「公証人に縛られた」、新しい自由の時代。

“贈与”の探求

そんな世界から“贈与”関係を取り出すには、大まかに言って二つの方法がとられる。

一つ目は、文化人類学的方法。経済的交換*2が発達していない、原始的な(ごめん、Politically Correct な単語考えるのめんどい)をターゲットにして、文明に汚されていない“贈与”を取り出す。

二つ目は、歴史学的方法。資料を丹念に読んで篩にかけ、ひとびとの取引慣習に埋め込まれた“贈与”的な部分を見つけ出す。

前者の方が純粋なものをより容易に得られるが、所詮、文明の主流から外れた枝をターゲットにしているので、あくまでも特殊な事例なのではないか、という疑いはぬぐいえない。一方、後者は精錬の難はあるものの、現代の主流文明に直結するモノが得られるという利点がある。

本書がとる方法はもちろん後者だね。興味がある人は読んでほしい。

とくに7章は個人的に興味深かった。ヴェーバーはたぶん、逆立ちしていたんだ。

*1:ホッブズの『リヴァイアサン』はそこから話が始まる

*2:言い忘れたが、ここでいう“交換”はモノのやりとりではなく、経済的なやり取りを指している