『経済学史―学説ならびに方法の諸段階』

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経済学史―学説ならびに方法の諸段階 (岩波文庫 白 147-3)

経済学史―学説ならびに方法の諸段階 (岩波文庫 白 147-3)

『現代経済学の群像』 - だるろぐ を読んだあと、「そういえばシュンピーの経済学史の本を積読してたっけ」と思いだしてので、再び紐解いてみた。

ただ、読んでみたはいいけれど、難しくてほとんど意味がわかんなかった。この本には大量の経済学者が登場するけれど、読んだことがあるのはほんの一部だけで、ほかは解説書で少しだけ、本書で頻出するロードベルタスに至ってはまったく知らない。

ヨハン・ロードベルトゥス

ヨハン・ロードベルトゥス(Johann Karl Rodbertus-Jagetzow、1805年8月12日 - 1875年12月6日)は、ドイツの経済学者。ポンメルン地方の生まれ。

学説

デヴィッド・リカードの労働価値説を深化させ、地代と利潤が搾取された剰余価値にあることを、地代は絶対地代であることなどを明らかにしている。恐慌論では過少消費説の立場を説いた。カール・マルクスは剰余価値の思想を練り上げてから彼の思想に接している。

また、剰余価値を国家から労働者に還元することを唱え、国家社会主義の立場に立つことを明らかにした。この点ではアドルフ・ワグナーらの先駆者と言える。

主著に、Zur Erkenntnis unsrer staatswirtschaftlichen Zustaende(『国家経済の現状認識のために』、1842年)がある。

ヨハン・ロードベルトゥス - Wikipedia

“国家社会主義”とは物騒だな。

ちなみに本書は、第一次世界大戦前に M.ヴェーバー が企図した叢書『社会経済学大綱』の第一巻一部『経済および経済科学』のうち、シュンペーターが執筆した『学説ならびに方法の諸段階』を抜粋して『経済学史』という名前を付けて訳出したものらしい。ちなみに、『社会経済学大綱』を編むというプロジェクトは敗戦後も継続されたものの、ナチスドイツの成立と第二次世界大戦によって再び中断し、今日に至っているとのこと。それまでに『経済および経済科学』は改訂や増訂が行われているが、本作の部分はそのまま残された。

そういう事情もあり、本書の経済学史は第四章「歴史学派と限界効用理論」で終わっていて、ケインズなどは出てこない。

それはともかく、シュンペーターの博覧強記ぶりにはビックリだわ。

目次

  • 第一章 社会経済学の科学への発展
  • 第二章 経済循環の発見 ―― フィジオクラット(アダム・スミスについて)
  • 第三章 古典学派の体系とその諸分派
  • 第四章 歴史学派と限界効用理論

解らなかったなりに……

第一章では、経済学史の“前時代”が扱われる。そこでは「哲学」の側からアプローチする人たちと、「実践」の側からアプローチする人たちがいた。とても簡単に言えば、前者はモデルを作って「こうあるべき」という経済(または社会)を考えたが現実にはなんら参与せず、後者は現実の観察と改善から「こうするべき」という対策を考案したものの、それはある統一された理論に基づくものでは決してなかった。

第二章では、その結合を行った“フィジオクラット(重農主義者)”とアダム・スミスを扱う。ここで歴史上はじめて理論を構築する上での共通認識・基礎としての「学派」が生まれる*1が、後世のそれほど確固としたものではなく、まだまだ“偉大且つ最も独創的な思索家”たちが主役だ。

第三章では、“古典派”が扱われる。ここでは主役は、すでに「人物」ではなく「学説」。しかし、イギリス・フランス・ドイツ・アメリカなど、国によって理解のされ方と浸透の度合いは異なっていた。以降、古典派のコア理論とそれに対する反論、派生が延々と解説されるのだけれど、まとめるのは面倒なので、第四章の結論(第十節)だけキッチリ読んでおく。

経済学は経済生活の基礎事実の本能的な知識から生まれつつ、実際の経済によって形成された十八世紀の諸思想に結びついて固まってきたものである。そしてわが科学のあらゆる「新しい根拠付け」にもかかわらず、その成果は徐々に且つ連続して修築されてきた。

(学説の対立の苛烈さは、しばしば発展の連続性を中断するもののように見える。しかし)発展の段階は飛躍を許さない。有機体のそれであろうと、政治的、社会的のそれであろうと、さらにまた科学的発展の場合であろうと皆々然りである。しかしこのようなことも時間の経過とともに自ずから解決されるかもしれない。そしてその暁には過去百五十年間の社会科学的研究の基本線の統一性を体感することがもっと容易になるであろう。

まぁ、そうなのかな。

でも、経済学的なモデルは“現在の”社会を切り取ってデフォルメしたものだから、純粋なモデルへの反証が仮になかったとしても、社会構造が変化するにつれて徐々に古臭くなる。しかも今日では、理論と実践が結合した結果、理論の発展が実践を通して実体経済へ影響を与えることすら少なくない。また、理論は理論で日々高度な数学によって磨き上げられいて、美しいが現実との接点を失って脆いものになっているようにも感じられる。実際、それは政策として応用することが許されるのだろうかと疑うぐらい。昔よりさらに見通しは悪くなっていないか?w

そうなると、誰か“創造的破壊”をやってくれんかな、という気分にもなる。

*1:シュンペーター自身は「学派」を持たなかった、という『現代経済学の群像』の言葉が思い起こされる