『ヘロドトス 歴史 中』
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かの有名なマラトンの戦いから数えること三代の昔、ラケダイモンにグラウコスという者がいた。この者は若いながらあらゆることに秀でていたが、こと正義を重んずるという点では並ぶ者がない。正義の前では利益どころか命すら顧みないというありさまで、節義を重んずる――無論、神が格別に詐術を許したもう戦場は別として――ことではギリシア一を自負するラケダイモンの人々ですら、彼には到底及ばぬと舌を巻いていた。
彼の名声はいつしかペロポネソスのみならず、エーゲ海を超え、遥かアジアにまで広がっていたらしい。あるとき、一人の男がグラウコスの屋敷へやってきた。
「あなたの正義の徳に浴したく、ミレトスから罷り越しました。グラウコスよ、ぜひお目通り願いたい」
アナトリアから遥々何を――グラウコスは訝しく思ったが、我が徳を揚げる機会になるのであれば断る理由はないと思いなおし、急ぎ酒席を整え、奥の間へ男を迎え入れた。
ミレトスの男は言った――イオニアは常にペルシアの脅威に晒され、王に土と水を献じて安寧を得ようとする輩と、蛮族<バルバロイ>に服することを潔しとせず、自主独立を計る者とで争いが絶えない。それにひきかえ、ペロポネソスではもう何年も争いがないという。それはあなたたちラケダイモンがリュクルゴスの遺法を守って内に結束し、常に外寇に備えているからだ。私はアナトリアで事業を起こし、いくばくかの財産を得たが、この財産というものはけっして同じ人間の掌中に留まるものではない。
「そこで財産の半分を金に替え、あなたのもとにお預けするのがよかろうと思い定めました。あなたの手元ならば、金が無事であることをよく承知しているからです。どうかその金をお預かりくださり、この割符とともに持っていていただきたい。そして、その片割れを持参して返却をお願いしに参る者があれば、その金を返してやってくだされ」
グラウコスは男の願いを聞き入れ金を受け取り、倉に納めて固く封を施した。
――
時は流れ、もはやミレトスの男もこの世には存在しまいと思われた頃になって、一人の若者がスパルタ市までグラウコスを訪ねてやってきた。曰く、割符をもって参ったので、父が預けた金を返してほしい。
グラウコスは玄関先で彼に応えた。
「私には父上とそのような約束を交わした記憶がないし、君の割符を見ても思い当たることが何一つない。もし君の言うことが真実であれば、我が正義に誓って約束した通りに取り計らいたいとは思っているが……言いがかりならギリシアの法に従って君と対決しなければならない。そうだな、この件に関しては四カ月先に改めて決着をつけることにしよう。もしかしたら思い出さないとも限らぬしな」
若者は父の金を騙し取られたと憤慨したが、かりに裁判に訴え出ても、グラウコスの信用と名声の前に勝ち目はなかろう。当初はあきらめきれず、何日か市内をあちこち当たってみたようだが、すぐにあきらめ、四カ月を待たずに悄然と街を去った。
一方、グラウコスは旅支度を整え、密かに北へ向かった。世界のへそ、デルポイ市に建つポイボス・アポロンの神殿で託宣を受けるためである。
グラウコスは神殿へ貢ぎ物をたっぷり納めると、神にこう尋ねた。
「ミレトス人から預かった金を奪う、可なりや?」
デルポイの巫女は大地の割れ目に築かれた祭壇に上り、目を閉じ、長々と息を吐くと今度は細く吸い込み、やがてその体に神を下して厳かに応えた。
「エピキュデスの子グラウコスよ、好きにするがよい。
お前が築き上げた徳の前に、責める者はもういない。
預かった金を得て、さらに徳を重ねればよかろう。
しかし、誓いの神には名もなく手足もない御子がいる。
この御子は疾風のごとく罪ある者を追い詰め、
その一族郎党をことごとく滅ぼすまで止まらない。
せいぜい用心するがよかろう。」
これを聞いたグラウコスは恐れ戦き、そのようなことを尋ねた罪を許されよと神に宥恕を乞うた。しかし、
「神を試すことは、悪巧みを行うことと同罪である」
巫女はこのような言葉を残すと、ぐったりと座り込んでしまった。
グラウコスはすぐさまミレトスの若者を呼びにやり、詫びて金をすべて返したが、今日グラウコスの子孫なる者は一人も残っていない。あれだけ豪勢だった彼の屋敷も、今はどこにあったかすらわからないという。
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