『文明の誕生 メソポタミア、ローマ、そして日本へ』
執筆日時:
文明の誕生 メソポタミア、ローマ、そして日本へ (中公新書)
- 作者: 小林登志子
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2016/09/09
- メディア: Kindle版
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手ぶらで外出たけどなぜかヒマができたので、時間を潰すためにテキトーな明屋書店で買った。そんなに期待していなかったんだけど、割かしよかった。メソポタミアを中心に古今東西の「文明の濫觴」を拾っていて、単なるウンチクとして読んでも興味深いし、自分なりにつながりを考えてみても面白い。世界史の教科書の最初の方って無味乾燥なイメージあると思うけど、こういうのも並行して読んでいればもっと興味をもって学べると思う。
で、読んでて気づいたんだけど、この本の著者、昔読んだシュメール人の新書と同じ著者だった。
ネタのほとんどがメソポタミアだし、なんか文体にも見覚えがあった。ネタのかぶりはそれほど多くないので、これも併せて読むといいと思う。知識に厚みができて、より身近に感じられる。
ただ、一部説教くさいのところには閉口した。
死刑廃止している国の方が進んでいるのかといえばそんなことはないと思うし(個人的には死刑の存廃なんかどうでもいい話で、死刑になるような犯罪を減らすことに注力すべきだと思っている)、「2アスで私はあなたのものよ!」と落書きした女性が不幸だったとは限らない。まぁ、カネに困ってたのかもしれんけど、貴族の娘が酔っていたずらで書いた可能性だって無きにしも非ずだし、しょうもない色眼鏡で事実に色を付ける必要はない。
まぁ、本の内容はさておき――
結局のところ、文明ってなんだろうな。本書でも指摘されてたけど、文明の定義なんてそれこそ人それぞれだし、もはや論じるのも無意味なことなのかもしれない。
でも、自分なりにあえて定義するならば「宗族を超えた社会(≒共和体、市民社会)を支えるインフラ」なのかなーと。宗族内社会(イントラ宗族)から宗族間社会(インター宗族)へ脱皮するには、いろんなプロトコルとインフラが必要になるよね。
宗族内社会での相互贈与では、贈与を記述しておく必要はない。むしろ細かい端数については黙って起き、有耶無耶にしておくのが礼儀でもある。
しかし、宗族間社会での相互贈与ではそうはいかない。血縁や群れといったガバナンスに担保されない相互贈与のルールは、いつ破られるともわからない。
なので、そうした相互贈与(交換)においては、おのおのが自分が得たもの・与えたものについての“覚え書き”を残しておくようになるだろう。相手がルール(契約)を破ったときに突きつけるための証拠として。最初はおのおのが好き勝手なフォーマットで書いている“覚え書き”も、そうした社会では次第に相互に理解が容易になるよう形式が整えられ、共通のプロトコルとなっていく。これが“文字”の誕生であり、“信用(→貨幣)”の誕生だ。貨幣というのは、貸し借りを分かりやすく表現するためのトークンに過ぎない。
また、信用を維持するための暗黙のルールを明文化した“法律”もやがて誕生する。これは、外からやってくるものや、新たに生まれてくるものに、その共同体で身につけておくべきルール(と、マナー)を教えるためのものだ。その前は“宗教”がその役割を担っていることもある、というか、相互贈与の紐帯を形式化したのが“宗教”なのかなと個人的には思っているので、むしろソッチのほうが本家だな。
というわけで、宗族をまとめるための“宗教”、宗族同士が交流するための“文字(おそらく最初に誕生した文字は“数字”なんじゃないかなー)”や“貨幣”、開かれた共和体のための“法律”は文明に必須の要素だとみなしていいと思う。
しかし、その前提となるのはまず“交通”と“集住”だろう。ルソーか誰かは“自然状態”としてヒトがバラバラに暮らしている状態を想定していたような気がするんだけど、そういう世界では文明は発達し得ない。“交通”のインフラである“船”や“道路”、“馬”(、宿場)、“集住”のためのインフラである“都市”、水道施設、建築なんかも文明の基本要素だろうね。そういえば「文明(Civilization)」は、「城壁の内側≒都市の住民(市民)になること」でもあった。
これらの要素は互いに結びつき合っていて、共進化を遂げてきた。その爆発的な発展過程こそを指して“文明”と呼んでいるヒトもいるみたいだな。それぞれの要素の単なる足し算としてしか“文明”をみないのは片手落ちなのかもしれない。