『一遍と時衆の謎: 時宗史を読み解く』

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新書748一遍と時衆の謎 (平凡社新書)

新書748一遍と時衆の謎 (平凡社新書)

以前に伊予の越智氏・河野氏の本を読んだときに「一遍上人は河野氏の出身」って知って、いつか時宗関連の方は一冊読んでみようと思っていた。

その一冊目がこの本だったのは、割と運がよかったと思う。色んな論をひいては、自分なりの立場を示した後に取捨選択していて、著者の誠実な性格が透けて見えるように思える。

ただ、それ故にサラッと流し読みできる文章にはなっておらず(論文にはありがちだね)、また専門的なところも多々あり、仏教の基本的な考え方すら知らない僕にはツラいところも少なからずあった。まぁ、詰まってもしゃあないので、そういうところはサラッと流した。まぁ、いずれ分かる時も来よう。

というわけで、自分が興味を引いた部分だけを適当に扱って、今回はお茶を濁そうと思う。

国境なき医師団の先駆け?――「陣僧」

陣僧とは時衆(のちに宗派として成り立った時宗とは異なり、一遍の生き方をまねた人たちの自然な集まりを時衆と呼ぶのかな?)にのみ見られる特異な人たちで、

戦場に赴き死者を弔い、場合によっては、変わらモノが行う仕事で卑賤視されていた死者の遺体処理までも担当

していたという。なかには戦場で治療活動にも従事し、その後医師になったものも少なくないという。もちろん、敵味方の区別はない。そのため、今でいうところの赤十字のような、一種中立な立場を得ていたらしい。

もっとも、こうした“中立”の立場を悪用する輩もいないわけではなく、「時衆を軍勢に同行させる場合は、情報伝達行為をやらせないこと」なんていうキマリも残っているのだそうだ。

それはともかく、こういう人たちの存在は、常に死と隣り合わせである武士にとっては得難い存在だったろう。時衆は下賤な仕事に従事しながらも(権力ピラミッドの最上位にいる)武士に保護されるという、ちょっと不思議な関係を築いていたみたい。

こうした関係が、のちの徳川幕府による庇護を勝ち得た理由かもしれないね。まぁ、徳川氏の先祖に徳阿弥という時宗関係の人がいたのも一因みたいだけれど。徳川氏と異なり、豊臣秀吉は養父の“竹阿弥”にいい感情をもっていなかったせいか、それほど優遇されなかったという話も興味深かった。

芸能とのつながり

もう一つ、古い時代に下賤とみなされていた仕事に、芸能がある。それにも時宗は積極的に関わっていた&支持を集めていたらしい。

たとえば、能で有名な観阿弥・世阿弥とか(“阿弥”という号は時宗に多かった)。そのほかにも出雲阿国なども時宗に関わりがあったのではないかと言われている。

こういうところも、権力者との良好なつながりを築くのに役立った感じ。宗教はともすれば武力にならぶ権力として社会に君臨しがちだけど、うまく機能しているときの時宗は、社会を上と下で断絶させない、ある種橋渡しのような役割を担っていたんだね。『ひょうげもの』で言えば、“数寄の力”というやつだろうか。専門家はこれを公界とか無縁の場みたいに読んだりもするらしいけど、自分は今まであんまり興味なかったからよく知らない。でも、在野の res publica 研究家としては見逃せない感じだの。

公共事業ムーブメントの仕掛け人?

時宗は諸国を遊行し、賦算(ふさん:お札を配ること)と踊念仏を行ったが、その土地土地で一種の公共事業のようなことも行ったらしい。今でもそれに由来する「遊行のお砂持ち」なんていう行事が残っている。きっとお札をもらいに来る庶民が砂を持ち寄って、ついでに老朽化したインフラを修理したりなんてことをしたんだろうね。

今でも都道府県で国体を持ち回りして、それを理由にインフラ整備をガーッとやっちゃうケースがあるけれど(オリンピックもその類やな)、物事をなすには何かしらの“契機”が必要だったりする。時宗の遊行は、そのためのシステムの一部として機能していた。

オシャレ向けじゃない、泥臭いリベラル

そのほかにも、鎌倉仏教が“神祇不拝(神さまを崇拝しないこと)”を掲げていたのと一線を画し、一遍上人が神さまも自然に敬っていたところなんかも共感できた(なのに明治の廃仏毀釈で時宗が大ダメージを受けたのはかわいそう。まぁ、徳川幕府と縁が深すぎたのかもね)。また、一遍上人の和歌もなかなかおもしろい。知識をオシャレにせず、いかに自分の考えを広く・分かりやすく伝えられるか――お札配りでも和歌でも、なんでもいいからひたすら実践に活かしていこうとしていた姿勢には共感がもてるなぁ。

もしかして僕が戦国時代に貧乏農家に生まれていたら、時宗の門を叩いたかもしれないな。時宗ってちゃんとした“門”がなさげなイメージだけど。