バイク&艦これ:名張から天理、戦艦大和所縁の神社「大和神社」に行ってきた
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バイク:鈴鹿から伊賀上野・名張 - だるろぐ の続き。墓参りも終わったし、名張川沿いを進んで山添村に抜け、名阪国道を天理まで。
県道80号奈良名張線にはいって梅ヶ丘住宅地の麓をぐるっと回り、赤い夏秋橋を右にみながら、奈良県に入るまで名張川沿いを進む。この時期はところどころに植えられている桜がキレイで、緑の山々、青い渓流とのコントラストが目に眩しい。一車線のすれ違いなので、クルマで行くのはあまり好きではないのだけれど、バイクでこっちにくるときはほとんどこのルーツを使う。針IC 経由の道よりも、こっちの方が楽しいしね。
奈良・山添村に入ってしばらくすると、名張川とはお別れ。波多野郵便局のあたりのわかりにくい三叉路を左に折れる。このルートで迷いやすいのはココだけ。しばらく行くと、山添小学校などの集落を通る。気持ちのよいアップダウンとワインディングだが、スピードの出し過ぎには注意。たまにお婆さんが道の真ん中に転がってる。このルートも桜がキレイで、とても気持ちがいい。
快調の飛ばして、天理着。天理ICまで行くとお金をとられると思っていたので天理東ICで降りちゃったけど、多分記憶違い。天理ICまで行っちゃえばよかった。
次の目的地・大和神社は天理ICの近くだったと思ったので、記憶を頼りに周りをちょろちょろ走りながら探す。すると、ちょっといい感じの神社を発見。
和爾下神社(わにしたじんじゃ)。ちょっと目的と違った。この鳥居は参道の入り口で、神社は奥にある前方後円墳の上に建っているらしい。まぁ、奈良にある丘はだいたい古墳だしな(偏見)。
近くには、陸軍大臣・荒木貞夫の筆になる立派な忠魂碑が立っている。
荒木 貞夫(あらき さだお、1877年(明治10年)5月26日 - 1966年(昭和41年)11月2日)は、日本の陸軍軍人、第1次近衛内閣・平沼内閣の文部大臣、男爵。最終階級は陸軍大将。皇道派の重鎮であり、昭和初期の血気盛んな青年将校のカリスマ的存在であった。
1931年(昭和6年)より犬養内閣・齋藤内閣陸相。1934年(昭和9年)、軍事参議官。1935年(昭和10年)、軍功により男爵。1936年(昭和11年)、二・二六事件の粛軍の結果、予備役に編入される。1938年(昭和13年) - 1939年(昭和14年)、第1次近衛内閣・平沼内閣の文相として国民の軍国化教育に邁進した。
思想はともかく、割と面白いヒトっぽい。
青年将校たちとは友達感覚で接し、自宅に彼らを年中たむろさせ、明け方まで痛飲することも多かったことで知られていた。少尉に任官したばかりの20歳前後の者が、真夜中に「荒木はいるか!」と大声で叫びながら遊びにやってくるようなこともあり、青年将校たちは、面と向かって大将である荒木を呼び捨てにし、荒木も怒るどころかニコニコしながら「若い者は元気があって良いのお」と上機嫌であったという。そのため、他の将校たちから顰蹙を買うことも多く、陸軍内で問題視された「下克上」の風潮も、荒木による一連の言動が最も大きい要因の一つだったと言われている。
石原莞爾は荒木のことを徹底的に嫌っていた。石原は皇道派ではなかったが、皇道派と対立する統制派でもなく、思想的理由で荒木を嫌っていたのではなく、荒木の無責任と無能ぶりが我慢ならなかったようである。二・二六事件の只中、陸軍省で荒木と遭遇した石原(当時陸軍大佐)は荒木に向かって「バカ!お前のようなバカ大将がいるからこんなとんでもない事態になるんだ!」と罵倒した。荒木が「陸軍大将に向かってバカとはなんだ!陸軍部内の規律と秩序を考えろ!」と言い返すと石原は「この状況のどこに規律と秩序があるんですか!」と猛然と言い返し、両者はあやうく乱闘になりかけたが、その場にいた安井藤治東京警備軍参謀長が二人をおさえて何とか事なきを得た。
忠魂碑の右に見えるのは、日露戦争で戦没したとある一等卒の墓。第二軍(奥保鞏)麾下の第4師団(大阪)に属し、南山・得利寺などの激戦に参加したが、たぶん首山堡の戦い(遼陽会戦)でなくなったらしい。
脇には忠魂碑の何たるかを説明する札が立っている。こういうことに絡むとメンドクサイので、これ以上は立ち入らない。
さて、道を間違ったようなので Nexus 6 でググったところ、目指す大和神社はどうやら逆方向(南、桜井方面)らしい。雨も気になるし、本殿には上らずに引き返すことにする。
なんだかんだ、20分ぐらいタラタラと走っただろうか。「大和神社」に到着。天理ICでて南下するだけだから、普通の人なら迷いようがないね!
氏子さんらしきおじさんがトラックで大挙やってきて、「雨が降る前に終わらせてしまいたい」だのなんだの言っていたのだけど、察するにこれの準備のことらしい。
「大和神社」は日本最古の神社の一つ。
戦艦「大和」とは、艦内神社(軍艦のなかにある神社。航海の安全と戦勝を祈願した。艦の名前にちなんだ神さまを分霊してもらうのが通例)に御霊を分霊したという所縁をもつ。
最近はこの所縁を“売り出し中”らしい。最近では下賀茂神社が遷宮の費用出せなくて敷地を高級マンションとして貸し出したなんて話もあったけど、神社はどこも大変なのかな。割と新しめの碑が立っていて、ちょっと微笑ましい。まぁ、忘れられちゃうよりもいいことだと思う。
ちなみに、この参道がちょうど戦艦大和の全長に相当するのだそう。幅は1/5だっけか。でけえな……。
“戦艦大和展示室”も設けられていて、なかには模型などが展示されている。
ご一緒した老夫婦に、ちょっとだけお話を聞く。「呉には行ったことないの? じゃぁ、行かなきゃ!」とのことなので、今年の夏には行くか、と決意を新たにした。
本殿。おみくじは大吉でしタ。
ここで祀られている神さまは、日本大国魂大神(やまとのおおくにたまのかみ)。天照大神と同格の神さまとしてかつては宮中で一緒に祀られていた神さまなのだけれど、詳しいことがあまり伝わっておらず、謎の多い神さまだ。
『日本書紀』の崇神天皇6年の条に登場する。宮中に天照大神と倭大国魂の二神を祭っていたが、天皇は二神の神威の強さを畏れ、宮の外で祀ることにした。天照大神は豊鍬入姫命に託して大和の笠縫邑に祭った。倭大国魂は渟名城入姫命に預けて祭らせたが、髪が落ち、体が痩せて祀ることができなかった。 その後、大物主神を祭ることになる件が書かれている。
同年8月7日、臣下の夢の中に大物主神が現れ、「大田田根子命を大物主神を祀る祭主とし、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祀る祭主とすれば、天下は平らぐ」と言った。同年11月13日、大田田根子を大物主神を祀る祭主に、長尾市を大国魂神を祀る祭主にした。
よくわかんないけれど、どうやらこの神さまは大和の国の土地神さまだったのかな。侵略者である天皇家に祀られているのがある日突然気にくわなくなったらしく、疫病とかふりまいてダダをこねていたので、天照大神とは別に、市磯長尾市の一族に祭祀をお願いしたって感じらしい。
すでにこっちで書いたので、そこで書き損じたことだけつらつらと。