ルイ十六世が人権を尊重した平等な殺人機械へ送られるの巻

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ジロンド派の興亡 (小説フランス革命)

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共和政の樹立 (小説フランス革命)

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「この機械で私も首を刎ねられるのかい」
「はい」
「私だけでなく、処刑される人間は誰もが、かい」
「たぶん」
「なるほど、断頭台は人権思想と平等精神の賜物だというからね」
「人権と平等、でございますか」
「そうだよ」

人権尊重というのは、無用な苦しみがないからだ。
平等だというのは、王侯貴族だから斬首、平民だから縛り首なんて差別はなく、誰もが同じように死ねる道具だからだ。

「いやね、断頭台の刃を見給え」

そうそう、あの紐で上まで引き上げられた刃だけど、落下する面が斜めになって、三角形に加工されているだろう。

「最初は三日月のように窪んだ形の刃だった。あのように改良を命じたのはほかならぬ私なのだよ」

「……」

「機械工学の常識からして、刃が斜めでないと、人間の首なんて太いものは、とてもじゃないが絶てやしないと思ってね」

ギロチンの改良を行ったのがルイ十六世であるという説はむかしからあるが、おそらくそっちの方が話が面白いからであって、事実ではないような気がする。商鞅が自分で定めた法によって処罰された話と同じで、皮肉が効いている。

ギロチンにかかるシーンの叙述はあっさりしている。そのおかげもあってか、これまでの巻でのルイ十六世――いや、ルイ・カペーと呼ぶべきか――が走馬灯のように思い起こされた。物語では少なくない数の人々がそれぞれに成長を見せていたけれど、ルイ十六世もその一人だった。狭い世界の中でのことではあったけれども、決断することを覚え、自信をはぐくみ、マダムとだってちゃんとエッチしまくれる男になった(脱線するけど、佐藤賢一の小説は性的に自信のない男たちがよく登場するので、個人的にとても親近感がわいてしまう)。

でも、当時の世界は激しく揺れ動いていて、彼のゆっくりとした成長を見守り、期待してくれるほど気が長くなかった。まぁ、所詮小説ではあるのだけど、この小説におけるルイ十六世はなんだか憎めない。もし十分な時間があれば、名君とは言わずも、十分満足すべき君主になったんじゃないかと思うのだけど。

あと、ダントン。

ミラボーが好きになれたのに、ダントンがあまり好きになれないのは、ミラボーが政治家の皮をかぶった革命家だったのに対し、ダントンは革命家の皮をかぶった政治家だからだろう。

ミラボーには自分なりの理想――と言わないまでも、理屈があり、それを達成するための道具として政治があった。もちろん、大臣になるという私欲もあったが、それはフランスの公益と合致していた。彼が大臣になることは、フランスをよりよい姿に変え、それを維持するために必要なことだった。王と議会の二権分立と憲法のある社会こそが、当時のフランスにとってはお似合いなのであり、それ以上は仮に理想に近いとしても、やはり時期尚早で、やり過ぎなのだ。

しかし、ダントンは違う。革命の旗を掲げ、民衆を扇動し、世界を動かしたけれど、とくに定見があったわけではないらしい。彼の頭にあったのはまさしく今日でいうところの“バランス・オブ・パワー”で、しかもその天秤はいつも揺れていなければならなかった。でなければ、自分の活躍の場が失われてしまう。彼が革新寄りの立場にあったのは、事態が固着してしまうと自分の立場が失われるからで、事態を常に流動させておくには革新寄りの立場でなければならなかったからだ……とはいえ、収拾不可能になるほど事態が混乱してもいけない。そうなれば、人権を尊重した平等な殺人機械へ送られるのは自分になるかもしれないから。

こうして、事態をコントロールできると己惚れた道化師がまた一人、破滅に向かって暴走していく。