『古代越智氏の研究』

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古代越智氏の研究 (ソーシァル・リサーチ叢書)

古代越智氏の研究 (ソーシァル・リサーチ叢書)

温泉帰り、近くの明屋書店(これが“はるや”と読めると地元民の仲間入りらしい)に並んでいたので衝動買いした。3,000円ぐらいしたが、結果的には安い買い物だったと思う。

自分は越智氏どころか、河野氏すら知らない人だったが、プログラミング生放送勉強会 第29回@サイボウズ株式会社 松山オフィス #pronama 無事終了……! - だるろぐ に来てくれた酢酸先生(@ch3cooh)がちょろっとそんな話をしていて興味を持った。まぁ、そんなことも知らずに松山住んでるのもどうかと思うし。

越智氏というのは古代に伊予で有力であった名族であるらしい。のちに続く河野氏などの氏族が越智の流れを汲むと称することで地域の覇権を握ったことでも窺えるように、この地方では割と尊崇されていたようだ。今でも愛媛では越智という姓が多いという。

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越智氏の起こりは、よくわからない。越智氏それ自体は自分たちの歴史を残すことにそれほど興味を持たなかったか、もしくは残したが伝わらなかったようだ。始皇帝に変な薬を飲ませた挙句、蓬莱を求めて東へ船出したという徐福の子孫だとか、熊野と結びつきがあったとか*1、伊予の国に下向し蛮族と戦った伊予親王の流れを汲むだとか、弩の名手だった越智益躬(ますみ)という人がいて“鉄人”を明石で退治したとか*2、小市(おち)田来津(たくつ)が天智天皇の時代に将軍に任命され、百済を助けて唐軍と戦ったとか*3、先祖が白村江で負けて捕まったけど神様の加護があり脱出できたとか、そういう伝承があるらしい。

――いろいろ話はあるが、簡単に言えば、越智氏は日本と大陸を結ぶ“海の道”で有力だった氏族のうちの一つだった。

“海の道”は、今で言えば東海道新幹線の価値に相当するだろう。越智氏は、名古屋駅と言わないまでも、静岡駅あたりを自前で建設・維持していた割とグッジョブな氏族といえば当たらずとも遠からずな重要度だったのではないかな。知らんけど。

彼らは現在の今治市にあった“越智郡”を支配しており、そこに設置された伊予の国の国府にも出入りしていた*4。そして、伊予国宇和郡や周防国玖珂などにも勢力を築くか、そこまでいかないまでも足跡ぐらいは残していたらしい。

その一方で、京(奈良とか京都とか)にも進出していた。もっとも有名なのは越智広江で、当代一流の学者として聖武天皇に仕え、藤原不比等の信頼も篤かった。彼がなぜ高度な大陸の律令知識をもっていたのかは謎だが、ここにも大陸とのつながりが感じられる。彼の以後、在京越智氏は学問の家として朝廷に仕え、伊予とも関わりも保っていたらしい。しかし、越智広江以降はパッとした人材を輩出せず、藤原氏などの有力貴族が幅を利かせるようになると、その下で行政官のような立ち回りを演ずることが多くなった。

そんななか、藤原常嗣の元、遣唐使の一員に選ばれたのが越智貞原という人物だ。筆まめな円仁和上が書いた『入唐求法巡礼行記』にも、彼のことが少しだけ書かれている。当時の遣唐使は命がけで、貞原自身も二度渡海に失敗するが*5、三度目にようやく成功。長安で禁制品を購入して捕まりそうになったりしている*6

彼の頑張りのおかげで、越智氏が崇敬する大山祇神社のレベルが上がったり(従四位下になった)、越智氏のカバネ*7が“直(あたい)”から“宿禰(すくね)”にグレードアップしたりと、越智氏全体にも大きなメリットがあった。帰国後は大宰府で外交官のような仕事をしていたようだ。

しかし、この貞原氏、割とやり手だったようで、新羅人と共謀した謀反の罪に問われてしまう。のちに冤罪と判明したが、おそらく同僚にやっかまれてチクられる程度には裏でおいしい商売をやっていたと思われる。

彼を境に在京越智氏の勢力には陰りがみられたので、この事件は冤罪ながら尾を引いたようだ。結局、在京越智氏の流れは“善淵朝臣”という姓を賜ったりしたものの、やがて歴史の表舞台から消えてしまった。もしかしたら、南北朝・室町時代に活躍した奈良の越智氏(南朝側)が在京越智氏の末裔なのかもしれないが、自分にはよくわからない。また、かの楠正成は越智氏の分家・橘氏の流れを汲むという。真偽は定かではないものの、ときどき歴史の底から“越智”という名前が湧き出てくるのはちょっと面白い。

――さて、伊予の越智氏。

こちらのほうも中央とのコネクションを失い、ちょっと消息が分からなくなるが、辛うじて藤原純友の乱で朝廷に味方したとのことで叙位の申請があったことが記録されている。身内にも海賊がいたのではないかと思われ、難しい立場を強いられたのではないか。しかし、うまく官軍側として立ち回ったようだ。この間、大山祇神社には六回の昇叙があり、位階は正二位にまで上がるなど、越智氏に強い引き留めがあったことがうかがえる。

とはいえ、中央と縁が切れているのはどうも羽振りが悪い。

越智氏はこの問題の解決を、相撲人の進貢に見出したようだ。その代表的な人物が、長年にわたって最手(ほて、今の横綱)を務め、藤原道長にも覚えのめでたかった越智常世*8。相撲人の進貢は割とハードルが高く、積極的ではない地方も多かったなか、伊予からは最手や脇(二番手、今の関脇)を少なからず輩出する。彼らは中央政界とのコネクションを確立したほか、さまざまな特権を得たという。

しかし、結局は武士の時代への転換には乗り遅れてしまったようだ。以後、伊予の主役は越智氏の流れを汲むと自称する河野氏や新居氏などへ移っていく。

――と、まぁ、割と力作だったので、面白かった。最後、学問に専念した広江と貨殖に走り咎を受けた貞原とを比べて前者を持ち上げた部分は鼻についたけど。自分は越智貞原という人物が、本書で一番輝いていたように感じる。

あと、本書には言及がなかったと思うけれど、伊藤博文なども越智氏を名乗っていたんだね(越智氏は周防にも関わりがあった)。彼の正式な氏姓名は“越智宿禰博文”。“直”から“宿禰”にはバージョンアップしているけれど、“菅原朝臣重信(大隈重信)”や“藤原朝臣利通(大久保利通)”、“平朝臣正形(まさとし、板垣退助)”なんかの“朝臣”勢には後れを取ってる感じがあるw

*1:熊野は良材が取れるので、海の道・船の道でつながっていた。中世ヨーロッパでは木材が戦略資源とみなされており、海運国家ヴェネツィアはこれに恵まれた。教皇がなんども木材のイスラムへの輸出を禁止したが、彼らはあまり従わなかったようだ

*2:日本で弓ではなく弩っていうのは珍しいよね。大陸とのつながりを感じる

*3:これは朴市田来津という人物の事績を借りたらしい

*4:本書では伊予国衙の所在特定も大きなテーマになっている。割と説得力があると思うので、ぜひ発掘調査をしてほしいものだ

*5:このせいで副使が逃亡する

*6:ちなみに、これは修学旅行のお土産に木刀を買ったら引率の常嗣に怒られたというレベルではない。当時は貿易ルートが遣唐使しかなかったので、リスクを負ってでもチャレンジする価値はあったようだ

*7:古くは臣、連、あとは朝臣とか、そういうやつ

*8:大山祇神社には“一人角力”という神事があるそうだ