『キスカ島 奇跡の撤退: 木村昌福中将の生涯』
執筆日時:
- 作者: 将口泰浩
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2012/07/28
- メディア: 文庫
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艦これでは「帰ろう、(無事に)帰ればまた来られるから」の名言で有名な提督。
静岡県静岡市紺屋町で弁護士の父・近藤壮吉(代言人、大正5年病死)母・すず(東京女子師範卒、帝国女子医専舎監)の次男として生まれる。生後すぐに木村家(母の実家、元鳥取藩士)の養子となり、木村家の籍に入った(このため木村の本籍は鳥取県鳥取市となった)が、養育は引き続き静岡の近藤家で行われた。
旧制静岡師範学校附属小学校、静岡県立静岡中学校(卒業席次は80人中39位)より海軍兵学校第41期入校。席次は入校時120名中84番、卒業時118人中107番。同期に草鹿龍之介、大田実、市丸利之助らがいる。
いわゆる「車曳き」(駆逐艦乗り)と呼ばれた生粋の水雷屋として軍歴を過ごした人物で、開戦時は巡洋艦「鈴谷」艦長。1943年2月に第3水雷戦隊司令官に着任。ビスマルク海海戦で重傷を負い、復帰後第1水雷戦隊司令官に着任。7月にはキスカ島撤退作戦を成功させる。1944年にはレイテ島挺身輸送作戦「多号作戦」を二度指揮して成功させ、さらにミンドロ島の米上陸地点への突入作戦「礼号作戦」をも成功させた。
その後、海軍兵学校防府分校長、防府海軍通信学校長(兼任)として終戦を迎える。
トレードマークは顔面からはみ出すほどの立派なカイゼル髭で、あだ名は「ショーフク」。寡黙で柔道二段という武道の達人であるが、一方で女性を慕うピュアな和歌をしたためたり、勇壮な漢詩を呼んだりといったちょっと少年っ気の抜けない文人としての一面もあった。
苦しい戦況のなかキスカ島撤退作戦・多号作戦・礼号作戦を成功させた戦功もさることながら*1、部下への思いやりが強く、上層部の命令をときに無視してでも、味方――そして、敵すらも!――の損害がもっとも少ない道を選び続ける信念を最後まで失わなかったのが感動的。この人を知れば、誰もがこの人の下で働きたいと願うだろう。
ただ、この人が連合艦隊司令官長官だったら……? というのは空想にとどめておくのがよいのかもしれない。わりと無邪気に真珠湾攻撃で興奮したり、ミッドウェーの敗戦で落胆したりしてて、大局観にはあまり縁がなかったように見える。けれど、平時は奢らず、盤根錯節に遭ってはよく道を失わなかったという点では、一個人として徳の高い人だといえるだろう。こういうひとに僕もなりたいなぁと思わせる。
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重巡洋艦「鈴谷」
開戦時に艦長を務める。木村もあの「甲板ニーソ」を闊歩したことだろう。
ミッドウェー海戦では第七戦隊(「最上」型重巡4隻(最上、三隈、鈴谷、熊野)から成る、司令官栗田健男少将)に所属。輸送船団の護衛として警戒任務に従事していたが空母機動艦隊の壊滅を受けて、反転・撤退を開始した。しかしその途中、米潜水艦「タンバー」(SS-198)に遭遇。戦隊はこれを避けようとするも、「最上」と「三隈」が衝突、「最上」は速力を失う。栗田は損傷した「最上」の護衛に「三隈」と駆逐艦二隻(第八駆逐隊「荒潮」「朝潮」)を残し、みずからは旗艦「熊野」に「我に続け」の信号旗を掲げ、主力と合流しようと西進離脱を図った。
しかし、「鈴谷」艦長木村大佐(当時)は「我機関故障」と「熊野」に伝達、独断で「三隈」生存者の救助に向かった。救助後は「三隈」を魚雷にて自沈処分*2。「最上」は主力の第二艦隊との合流を果たし、生き残る。
木村が少将に昇進して艦を離れたのち、レイテ沖海戦(1944年10月25日 サマール沖海戦)で喪失。
駆逐艦「白雪」
「鈴谷」を離れた次に木村が拝命した*3のが、第三水雷戦隊(「川内」+20駆、11駆、19駆)の司令官。「八十一号作戦」と呼ばれる、敵制海・制空圏内を真昼間に突き切るという無謀な輸送任務を押し付けられる。
木村は駆逐艦「白雪」に座上し、輸送船8隻と護衛の駆逐艦8隻(旗艦の他、「浦波」「敷波」「時津風」「荒潮」「朝潮」「朝雲」……「雪風」!!)から成る輸送船団を指揮したが、案の定、敵航空機に発見され、「反跳爆撃」と呼ばれる新戦法でタコ殴りにされる(世に言う「ダンピールの悲劇」。米側の呼称は「ビスマルク海海戦」)。木村自身も機銃掃射で左太もも、右肩、左腹部に貫通銃創を負う。「白雪」も沈没し、木村は「敷波」へ移る。
このとき木村は「時津風」に乗っていた陸軍第十八軍司令官・足立中将に近くの島へ投げ降ろしてくれと頼まれたが、このときも被害を最小限にするため要求を断り、最後まで海域に残って味方の漂流者を収容したのち、帰投している。
木村が負傷した際、信号兵が「指揮官重傷」という信号を掲げたが、「陸軍さんが心配する」と叱りつけて「只今の信号は誤り」と訂正させたという逸話が知られているが、本書では採られていない。
軽巡洋艦「阿武隈」
言わずと知れたキスカ島撤退作戦の旗艦。
キスカ島はアッツ島とともに、アリューシャン列島に属する米国領。軽空母二隻を割いてミッドウェー海戦の陽動としてとってみたはよいものの、ふかふかのツンドラは航空基地に適せず、ただダッチハーバーからの爆撃で一方的にボコられるだけの基地となる。1943年5月には、アッツ島の守備隊が「玉砕」。キスカ島守備隊の命運も風前の灯火となった。
木村は「ダンピールの悲劇」のあと内地で療養中だったが、キスカ島守備隊の転進作戦「ケ号作戦」を担当するはずだった第一水雷戦隊の司令官が急死。急遽、ピンチヒッターを命じられる。
一水戦司令部に“丸投げ”されたこの「ケ号作戦」だが、木村は辛抱強く航空機・艦船による攻撃を受ける心配のない濃霧の日を待ち、見事これを「完全に」成功させる。守備隊の撤退後、米軍が上陸するが、同士討ちで多数の死者を出した挙句、戦果は「犬3匹」だったという。
キスカ撤退作戦の成功は木村の判断に負うところが大きいが、上司(木村)をだまして危険な最短ルートをとらせた参謀や、決して捨ててはならないとされていた菊の御紋入りの三八式歩兵銃の投棄を上層部に無断で決断した陸軍北方軍司令官・樋口などのファインプレーも評価されるべきだと思う。
のちに「阿武隈」はレイテ沖海戦(スリガオ海峡海戦)で雷撃を受け戦没。木村も座乗していたはずだが、本書では触れられていない。
駆逐艦「霞」
1944年11月、木村は第二水雷戦隊司令官に補される。これまで司令官を務めていた一水戦は解体、二水戦に編入されており、かつて最強の水雷戦隊とも言われた二水戦も、もはや残存艦艇のかき集めでしかなかった。
12月、「礼号作戦」の実施命令が下る。「挺身部隊」を組織して味方の援護なしで敵中に突撃し、サンホセに停泊中(と思われる)の敵艦隊と陸上施設を一時間だけ砲撃して引き返すというなんとも素敵な作戦に、日頃愚痴を言わない木村もつい「艦隊司令部にはヒゲは三本足りないな」と漏らしたという。
この作戦で、木村は重巡「足柄」、軽巡「大淀」を差し置いて、駆逐艦「霞」を旗艦に選ぶ。駆逐艦の方が小回りが利く、一水戦司令官のときに「霞」とは繋がりがあって意思の疎通がうまくいく(スリガオ海峡海戦で「阿武隈」を失った後、木村は「霞」へ司令部を移した)といった理由があるそうだが、実際のところはどうせ死ぬなら駆逐艦で死にたいと思ったのが真相のようだ(「僕は駆逐艦乗りだよ。ひょろ長い水雷艇の時代から水雷屋なんだ」)。
ところが、結果はおおむね日本側の成功。駆逐艦「清霜」が魚雷により轟沈したが、木村は敵中「霞」の機関を止め、味方漂流者の救助に努めた。
ちなみに、日本海軍の駆逐艦が魚雷を命中させたのはこの作戦が最後となる。「水雷屋」の冥利、ここに尽きると言えよう。
そのほか
軽巡「神通」も縁のある艦。艦長を務めたことがあるほか、弟・近藤一声中佐が副長として乗り込み、コロンバンガラ島沖海戦で艦と運命を共にした。木村はこの報をキスカ撤退の二次作戦前に受け取っている。