『雇用はなぜ壊れたのか―会社の論理vs.労働者の論理 』

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雇用はなぜ壊れたのか―会社の論理vs.労働者の論理 (ちくま新書)

雇用はなぜ壊れたのか―会社の論理vs.労働者の論理 (ちくま新書)

著者の大内先生は労働法学が専門の方だけど、経済学を目の敵にせず、経済学的な視点も大事にされているので、割りと信頼して読んでいる。経済学的な視点から離れて、規範ベースの論理を学ぼうとするとき、双方の立場に断絶を作らない大内先生の著作はとっかかりとして最適なように思う。1ページ目に「解雇規制緩和なんぞとんでもない!」とか書かれたら、それだけで話は終わってしまうし、読む気なくなるしね。

本書は「会社の論理」、「労働者の論理」、「生活者の論理」など、いろんな観点から雇用ルールのあるべき姿を論じている。別に明確な結論があるわけじゃないけれど、頭を整理するには十分かなぁ、といった感じ。

難しいのは、同じ「労働者の論理」であっても、「集団としての労働者=組合の論理」と「個人としての労働者の論理」は微妙にズレているということ。自分なんかは労働組合に助けてもらった経験がないし、むしろ年がら年中デモしてウザい(市ヶ谷あたりだと平日にやっていることもある……「生活者の論理」から言えば、五月蠅い)と感じているせいか、「組合の論理」なんかクソくらえだと思うのだけど、歴史的に一定の役割を果たしてきたのは確かだし、まったくないのも困るというか、もっと活用していくべき枠組みなのだろうと感じないでもない。

また、「老年労働者の論理」と「若年労働者の論理」にも最近乖離があると思う。「老年労働者」は今の枠組みのまま逃げ切りたいだろうが、雇用社会へ新たに参加する「若年労働者」は今の枠組みに不満を感じている。かつての「会社」は「老年労働者」の生涯を保証する代わりに、労働の初期コストを抑えてきた。けれど、今の「会社」はその仕組みを形骸的に残しながら、労働者の生涯を保証するという約束については放棄してしまっている。「老年労働者」のなかでも、その約束を守ってもらえる「会社」に属する人と、約束を守ってもらえない「会社」に属する人がいて、後者は「約束が違うじゃないか!」と感じている。「大企業の労働者の論理」と「中小企業の労働者の論理」、そして「非正規労働者の論理」の間の溝も深い。

さらに、「生活者の論理」にしても、戦後ほど経済が貧しくはないせいか、多様化が著しい。転勤でも残業でもなんでもしてバリバリ働いて少しでも稼ぎたい人もいれば、地元でそれなりに働いてのんびり楽しく暮らしたいという人もいる。昔は飢えないために働くしかなかったのだろうけれど、今はワーキングプアとはいえ、かつてより生活水準としてはマシだ。ただ、頑張っても明るい未来がみえないという点においては、かつてよりも精神的にはキツいけど。ともかく「生活」するには「労働」しなくちゃならないのだけど、そのバランスの取り方や、そもそも「労働」偏重にバランスせざるを得ない人たちのことも考えなくちゃいけない。「単身」かどうか、「子ども」がいるかどうか、「女性」かどうか、パートナーが生計を支えるに足る人かどうか、人生経験の多寡で「生活者の論理」もまた変わる。コンビニの店員が挨拶しないことに切れたり、逆に挨拶されるのが気持ち悪いと感じたりするのも、「生活者」の考えの移り変わりが反映されているのかもしれないが、そういうことに対しても「会社」や「労働」は対応していかなくちゃいけない。

(ここまで考えて「会社の論理」ってそんなに多様性はないなぁ、と気づいたのだけど(あるかな?)、やっぱり経済環境と直面していて合理化・均質化への圧力にさらされているのが大きいのかもしれない)

まぁ、そんなこんな考えていると、全員にとって満足できるルールっていうのは難しいわけで。今は微妙なルールでも、歴史的に既得権益となってしまったルールに関しては、政治的に変えるのが難しい。

でも、個人としてやれることも少なくない。

たとえば、自分が何に縛られているのかということをちゃんと知るということ。

ローマ時代、労働をするのは奴隷であった。奴隷には権利は与えられておらず、モノと同じだったのである。そこでは、「lacatio」という契約方式が使われた。対価をもらって「モノ」を貸すという契約(賃貸借契約)である。

それから二千年経ち、ナポレオンによって興ったフランス帝国の時代。フランス民法典において、「lacatio」は雇用契約に転用された。

英語の「contract of service(役務提供契約)」で使われる「service」という言葉も、「servant(奴隷)」が語源だ。そういった歴史的なつながりを知ったり、辿ったりして、なぜより自由に労働できないのかという原因を考えてみたりするのは、大事なことだと思う。鎖につながれていることを知らずに鎖を断つことなど、どうしてできるだろう? 鎖が何でできているのかを知れば、より簡単に切ることもできるのじゃないか。経済学による分析や、法学が取り組んできた問題を勉強するのは、きっと役に立つと思う。

また、「service」じゃない「労働」をすることも大事だと思う。ローマ時代でも「servant」ではなく、自由民同士が労働契約をかわすことがあった。たとえば、弁護士や教師など、特殊な技能を貸してもらうためにお礼を渡すといった例だ。奴隷であっても、建築などの分野で得意な才能を認められ、やがては自由民(解放奴隷)として活躍した例もある。彼らはいわば「professional」であり、誰にでもできる「service」を提供しているわけではない。そういう立場になれば、奴隷的な扱いからは解放されやすいのではないだろうか。

というわけで、以下の3つのことが実現されたらうれしいなぁ、と思う。

それさえあれば、あとは個人が自分をどう定義するかの問題だと思う。奴隷でいいのか、自由民でありたいのか。