『漢字からみた日本語の歴史』

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漢字からみた日本語の歴史 (ちくまプリマ―新書)

漢字からみた日本語の歴史 (ちくまプリマ―新書)

面白かったのでペロッと読んでしまった。「漢字の使い方」の移り変わりから、その当時の日本人がどのように中国文化と付き合ってきたのかが透けて見えるのが興味深い。

かつては漢字に訓読みをあてて、漢字の向こうにある漢語と和語を重ね合わせていたけれど、最近の DQN ネームなんかを見ると、音読みも訓読みも一緒くたに、その音(ひどいときは一部分)だけをとって自分好みに繋ぎ合わせて使っている。これは一見「万葉仮名」と同じような使い方のようにみえるけれど、「万葉仮名」では「かは(かわ)」に「河泊」をあてたように、単に「音」だけを見ているのではなくて、その奥に「義」を見ていたところが少し違うかな。残念ながら、DQN ネームにはあまりそういった深みが感じられない。まぁ、好きにすればいいのだけど。

それはともかく、日本語の深さというのは、和語だけでなく漢語までもを取り込んだが故なのかなと思う。和語と漢語が共鳴して、「和製漢語」のようなものまで作り出して、それがまた中国に逆輸入されている(明治で開発された西洋語彙を表す熟語は、中国にもたくさん輸入された。たとえば「経済」。あちらでは当初「理財」と言っていた)のもまた面白いと思う。池波正太郎の小説なんかで「熱い酒(の)をおくれよ」などとフリガナで遊んでみたりできるのも、二千年近くマルチリンガルをやってきた成果なのかな。

でも、日本人って漢字に訓をつけてきただけじゃないよね。

僕は中学校のころだいぶ漢文が好きだったのだけれど、和語に漢字をあてることで、和語の意味を深く掘り下げることができることも経験している(今の小説家で言えば宮城谷正光さんがそういうことをよくやる)。たとえば、「みる」という動詞にはいろいろな漢字をあてることができる。手元にある『漢字源』で調べると、実に46もの漢字に「みる」という訓が与えられている。赤字で書いてある重要なものだけ引っ張り出してみよう(旧字体は省いた)。

漠然とした「みる」も、漢字をあてることによってキリッとした輪郭を帯びてくる。どう読むか(訓読み)だけでなく、その読み方を和語の記述に応用すれば、和語の意味を精緻化したり、境界を隈どったりすることで、日本語をよりシャープに、より豊富にすることができる――とすれば、教育漢字っぽい読み方や書き方で満足してしまうのはかなりもったいないことじゃない?

同じ著者の書いた『百年前の日本語』という本も売れてるそうだけど、ちょっと読んでみたくなった。