『ロシア兵捕虜が歩いたマツヤマ―日露戦争下の国際交流』
執筆日時:
- 作者: 宮脇昇
- 出版社/メーカー: 愛媛新聞社
- 発売日: 2005/10
- メディア: 単行本
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せっかく松山に引っ越したのだし、この土地に関係のある本を一冊読んでみようかと思い、近所の本屋で買ってみたった。
日露戦争のとき松山に捕虜収容所があったのは、『坂の上の雲』でそのような描写があったので知っていた。しっかりは覚えていないけれど、ロシア兵が投降するときに「マツヤマ! マツヤマ!」というのだとか。現在の愛媛大学や日赤病院があるあたり(まだ土地に不案内なのでよくわからん)にかつて練兵場があって、そこにバラックと呼ばれる収容施設がもうけられていたほか、一部の将兵は家を借りて住むことも許されたのだという。本書で描かれている捕虜が道後温泉や遠足を楽しんだりするさまは牧歌的で、戦争という凄惨な表舞台から引き揚げた“役者”がその仮面を脱ぎ、楽屋でのんびりお茶を飲んでいる風を思わせる。けれど松山には異郷の地で命を落とした捕虜の墓地もあって、やっぱり過酷ではある。“ロシア人捕虜”とはいうが、真実は“ロシア軍捕虜”であり、なかにはポーランド人やフィンランド人も混じっていたという。
そのころの日本は貧乏な国だったし、捕虜に対する扱いはあまりよくなかったのではないかと疑っていたのだけど、実際はむしろその逆だったらしいことには少し慰められる。当時は不平等条約を解消して、先進国と対等に伍していくため、国際法の遵守には割りと気が配られていた(予備役であった東郷元帥が抜擢されたのも、国際法に五月蠅かったからだと聞いたことがある)。捕虜を優遇することは、相手の戦意を挫くためにも有効だったに違いない。大げさな表現をすれば、強大なロシア陸軍を奉天まで追いやった一つの要因として、少なからず「マツヤマ」があったのではないか。また、捕虜を大量に受け入れることで松山のほうも恩恵も受けたようだ。戦時のインフレ下においても、松山は例外的に景気がよく、ロシア人捕虜を尊重する空気があったようだ。
自分が思っていた以上に、ロシアとマツヤマの距離は近い。ロシアの地図には日本の都市として「ヒロシマ」の向かいに「マツヤマ」が書き込まれている。他の国の地図ならば四国にあるのはだいたい「コウチ」なのだけど、それが「マツヤマ」だというのが個人的には少し愉快だった。
ただ、そうした繋がりが今ではだいぶ希薄になってしまっているらしい。もったいないことだと思う。