『ヴェネツィア 東西ヨーロッパのかなめ 1081-1797』
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ヴェネツィア 東西ヨーロッパのかなめ 1081-1797 (講談社学術文庫)
- 作者: ウィリアム.H・マクニール,清水廣一郎
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2013/09/11
- メディア: 文庫
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最近売れているという『世界史 上 (中公文庫 マ 10-3)』『世界史 下 (中公文庫 マ 10-4)』の著者(自分はあんまり興味なくて読んでない)によるヴェネツィア史。とはいえ、ヴェネツィアのことについて、というよりもヴェネツィアを取り巻く環境の変遷(とそこで果たしたヴェネツィアの役割)史といった趣で、一通りのヴェネツィア史+中世ヨーロッパ史を把握してないと多分チンプンカンプンだと思う。自分は ダルヴィーシュ - Wikipedia と Hesychasm - Wikipedia, the free encyclopedia(ヘシカズム、静寂主義)に関する知識がまったくなかったので、宗教関連の記述では調べながら読み進める必要があった。神秘主義って、そもそもよくわからないところがある。
文章はいかにも歴史家が書いたものって感じで、だいぶ苦手。後半1/4ほどを占める脚注は知識の宝庫への扉になっていて、読むだけで飽きない。和訳があるものについては、何冊か読んでみたいと思った。
以下はあまり本書には関係のない内容。
中世までの都市の本質は、市場(いちば)にある。近世以降では産業の場としての役割が増えてきたが、本来都市というのは“生産”(→ 贈与)ではなく“交易”(→ 交換)の場だったと思う。王(贈与ピラミッドの頂点)が都市に住むことはあっても、それは“消費”(交易の終着点)する単なる在住者に過ぎず、都市の本質にとっては外様だった。だから、都市に世襲の王はかならずしも必要ではない。自律・自立の近代的精神は、こうして都市で育まれた。
ヴェネツィアが(ハリントンなどに神格化されるほど)理想的な共和主義の街(十人委員会をどのように評価するかで見方は変わってくるが)として数百年年にわたってヨーロッパでプレゼンスを保ってきた理由としては、そういった(商業)都市としての本質が長く保存されたからだと思う。のちになって“テッラ フェルマ(動かない土地)”を手に入れるまで、ヴェネツィアは交易拠点の必要から点としての領土をもつことはあっても、面としての領土をもつことが少なかった。ヴェネツィアでは貴族であっても土地による収入をもたず、もっぱら海外交易から糧を得る。だから、彼らの権力はそのときどきの商運の浮沈に左右されることとなり、封建(贈与)的な権力ピラミッドが大陸国家のように肥大化することはなかった。まぁ、そういうものがまったくなかったわけではなかったけれど、十人委員会のような専制的なシステムでさえ、ロマンチシズムではなく功利主義によって承認されていたから、王がわりかし自由に散財できたのと異なり、市民によって常に機能的であるべしと潜在的な圧力を受けていたといえると思う。ヴェネツィアが比較的うまくコントロールされ、長く続いたのもこれが原因だったのではないだろうか。
しかし、外的な環境の変化により、ヴェネツィアの市場(いちば)としての価値は徐々に低下していくことになる。ヨーロッパとイスラム(ヒスパニア・アフリカ・アラビア・アジア)が拮抗していた時代が終わり、ヨーロッパが独り立ちできるようになると、経済の中心は北ヨーロッパ(おもにフランドル地方)へと移っていく。ヴェネツィアは商人時代に貯めこんだ資産で着飾り、文化的な都市としてしばらく影響を保ち続けるが、それもやがてその立場もパリやロンドンに奪われていった。
個人的に少し興味深いのは、ヴェネツィアがいつの時代もわりかし保守的だったこと。支配者階級が固執したビザンツ風の装いや、名声は群を抜いていたにも拘らずついに近代科学の場として脱皮できなかったパドヴァ大学などで象徴されるように。ライバルのジェノヴァが暴走する天才的個人の群れだったのとは少し対照的で、エンリコ・ダンドロやマルコ・ポーロ以外に名前を残した個人はいなかった。これは“みんなが主役、ヒーローなど要らない”という共和主義が行き過ぎた結果なのだろうか。でも、天才たちが考えた一瞬のアイデアを継続的な事業に転換することにかけては一流で、なにがそうさせたのだろうと愉快になる。保険も文庫本も常設演劇場も、ヴェネツィア人が育てた。