『分析哲学入門』
執筆日時:
- 作者: 八木沢敬
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2011/11/11
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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なんかあんまりしっくりこなくて、内容が頭に入ってこなかった。分析哲学な頭になっていないんだな、まだ。
進化ゲーム的思考の欠如
たとえば、建設中の高層ビルの屋上に大きなタワークレーンが建っているのを見て、不思議に思ったことはないだろうか。いつの間に、どうやってあんなところに建てたんだろう?
正解は小さなクレーンでそれより少し大きなクレーンを組み、そのクレーンで元の小さなクレーンをバラすといったことを繰り返しているのだけれど、“今”(正確には“ある時点で”というべきか)を切り取って深めていく“分析”というやり方だけでは、その答えには到底解らないよね。最初の組立に使ったクレーンは搬出されてしまっていて、“今”は影も形もない。だから、“今”与えられた状況だけからはけっして導き出せない。
つまり、今起こっている現象にはかならず進化論的な“発達段階”がある。かつて A から B へ移行するためには C による影響が必要だったけれど、その C はすでに失われていたり、D という異なる形へ変化してしまっていることがあり得る*1。そういった“経緯をもつ依存関係”は総合的な問題であり、分析では対処しきれない問題ではないのだろうか*2。
分析哲学は、そういう進化論的な視点を欠いていると思う。
社会性の欠如
もうひとつ感じたのは、“他者”という立場があんまり考えられていないこと。
言葉というのは話者と受け手の間で共有されて初めて意味を持つのではないかなぁ。“ありえない仮定”を持ちだして論理的矛盾をあぶり出していくのは、ちょっとした知的遊戯だけれど、あんまり実りがあるようには感じられなかった。
あと、分析哲学では言葉そのものに意味があるという前提で話が進められているようだが、“金そのものに価値がある”とみなした初期の経済学者(ブリオニズム)と同じ過ちをしているように感じる。言葉そのものには意味はなく、その使われ方こそが“意味”だ。「歩く」と「走る」の違いに、分析可能な定義はある?
うちらはそれぞれ、自分に感じられる現実<リアル>を信じながら生きている。そのなかで、互いに言葉を交わしながら、同じ<リアル>を見ているか確かめあったり、<リアル>の受容体を発達させながら。
“受容体”というのは、<リアル>を切り分けて、整理し、不要と思われる部分を捨象し、受け入れる――つまり、理解する――ための概念だか語彙だかを指している。色に関する語彙を豊富にもつ言語の話者は、より多くの色を見る。冠詞のある言語を操る人は、それのない言語を操る人よりも論理学で言うところの自由出現や束縛出現を区別してしゃべることに慣れているのだろう、知らんけど。
そういうものを社会的に共有し、積み重ねてきた結果が今の言葉であって、そこにはさっき言った“進化”の跡があるだろうし、なによりまず、存在するにはその下地となる“社会”があるはず。そういうものから切り離された“分析”にも一定の――というか、かなり強力な――意味があると思うけれど、自ずと限界はあるかな。
カラッとして明るい哲学
ある若い日本の分析哲学専攻の大学生が、分析哲学はカラッとして明るいから好きだ、と私に言ったことがある。今まで私の聞いた分析哲学の性格付けでこれほど短く的確なものはない。最上だ。ほかの例など思い当たらない。
そこには同意するし、そもそも論理学的なことに興味をもって本書をとったので、自分もカラッとしたものを味わってみたいと思っていたのだと思うけれど、逆になぜ分析哲学がカラッとしているのかを突きつけられてしまい――ジメッとした部分(進化性と社会性)を捨象しているからだ!――、「うーん」と悩んでしまう。そこをとっちゃったらダメなんじゃない!?
なんというか、明快な分、どうしても箱庭感があるといった感じなんだなぁ、分析哲学って。でも、箱庭にしてはすごく深いのだけれど。
ただ、本書は日頃あんまり考えてなかったことを厳密に考える楽しみを教えてくれたし、けっして悪い本じゃないと思う。そもそも、論理学・分析のダメなところを最確認できたのも、本書のおかげだし。“限界シリーズ”の高橋昌一郎さんに影響されて執筆を始めたとのことだけれど、軽いタッチになっていて踏み込みやすい構成になっていると感じる。