/^o^\フッジサーン と道徳の外部化

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 山梨県の横内正明知事と静岡県の川勝平太知事は23日、世界文化遺産への登録を目指している富士山の環境保全のための財源として、登山者から入山料を徴収する意向を表明した。東京都で開いたイベント「富士山の日フェスタ2013」の会場で記者団に語った。

http://www.47news.jp/CN/201302/CN2013022301001790.html

致し方ないことだし、どんどんやればいいと思う。

けれど、そのうちみんなこう思うようになるだろう。「ちゃんと入山料(掃除代)を払っているのだから、汚しても文句を言われる筋合いはない」と。

問題の整理

こうした解決策のあまりうまくない理由は、いくつか考えられると思う。

まず第一に、この方法は実質的に“マナーのよいユーザーにも罰則を科す”ことに繋がってしまう。これまで無料だったのが、有料になってしまう――自分たちの行いとは関係なしに。

道徳とは本来内面的なもの、つまり「自分は自分の行う行為を尊敬できるか?」ということだ。だから、道徳的に正しいことを行う場合、「他人は悪いことをしてるじゃないか」とか「自分の行いが他人に報われるか?」とかいうことは一切関係がない。そういうことを考えて行動する人は決して道徳的とは言えない*1

とはいえ、正しいことをしているのに罰を受けるのは、やっぱり理不尽で不合理だ。「マナーを守るなんてバカバカしい」と感じても仕方がない。「正直者(自称)が馬鹿をみる」。なので、純粋に道徳的ではないけれどマナーは遵守するタイプの“マナーのよいユーザー”は、入山料を科せられるとマナーに従うことをやめるだろう、と予測できる。

そして第二に、この方法は実質的に“マナーの悪いユーザーを前提にしている”。つまり、マナーの悪さを許し――決して“積極的”ではないことは認めるにしても――肯定している。なので、この方法はもはやマナーを育てないし、育てることを放棄している

国家(やそれに類する組織)を父親に、その構成員を子どもに例えるのはもはや時代遅れといっていいし、個人的にもあまり同調する気はない。国(≒それを指導するエリート)が国民を教育し、道徳を高めていくという考えは古いのかもしれない。かといってそのすべてを放棄できるだろうか、してよいのだろうか。ほかの分野に対しても例外なく言える原則として、これは採用できるのだろうか。たとえば、国には「風俗営業を適正化する」義務と権利があるのだろうか、ないのだろうか。

小さな社会と大きな社会

小さな社会であれば、道徳や成文化されないマナー*2であっても比較的有効で、むしろ望ましい。

道徳(やマナー)は個々人に宿る内面的なもので、かならずしも社会的に共有されたものではない。だけれども、小さな社会であれば、大きな社会よりもそれを共有しやすい。老子は“小国寡民(第八十章 小國寡民 - だるろぐ)”でそれを指摘した。

しかし大きな社会では、それが困難になる。そのため、成文化された法律や、インセンティブを考慮したルールを設計する経済学的なアプローチで解決する。内なる個別的な道徳の最大公約数を外部化し、普遍的・一般的で、より多くの人と共有できる形式にして社会へ適用する。

一方で、この方法は個人の内面に関しては、より無関心であろう。良き動機よりも悪しき結果によって裁かれるだろうし、個人の都合より社会的厚生の増大の方が優先されるだろう。

孔子が子産を称えつつ、その方法に疑問を呈したのはそういうことなのだと思う。

聞いてみれば今回の施策は「世界文化遺産への登録を目指」してのことなのだそうだ。富士山をローカルなものからグローバルなものへするというのも結構だけれども、果たしてそれがよいことなのかどうか、もう一度慎重に考えるべきではないかと思わないでもない。

*1:って、確かカントおじちゃんが言ってた

*2:道徳とマナーの違いは、個別的であるか、社会的であるかの違いだと思う。道から外れたことをした場合、道徳的な人は自分で自分を罰するが、マナーを守るだけの人は社会が罰する