第八十章 小國寡民

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小國寡民。使有什伯之器而不用;使民重死而不遠徙。雖有舟輿,無所乘之,雖有甲兵,無所陳之。使民復結繩而用之,甘其食,美其服,安其居,樂其俗。鄰國相望,雞犬之聲相聞,民至老死,不相往來。

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世界でもっとも幸せな国はブータンなんだそうだ。たしかに「小国寡民」の理想郷を絵にしたような国だね。まぁ、個人的にはあんまり憧れないけれど*1

小國寡民
小さくて、人もあまりいない国がある

使有什伯之器而不用
そこでは道具があっても使わせないようにしている

使民重死而不遠徙
そこでは命が大切にされ、ひとはふるさとから離れないようにしている

雖有舟輿,無所乘之
船や車*2があっても乗らないし

雖有甲兵,無所陳之
武器があっても仕舞って取り出すことがない

使民復結繩而用之
みんなで縄を結んだものを使うようにし

甘其食,美其服,安其居,樂其俗
食べるものに満足し、着るものに満足し、住まいに満足し、ありのままを楽しむようにする

鄰國相望,雞犬之聲相聞,民至老死,不相往來。
イヌの鳴き声が聞こえるぐらい近くても、隣国同士お互い関心がなく、人は老いて死ぬまで互いに行き来しない

「重死」は、死を重んず、つまりほかの人の命が失われることに同感すること。でっかい国になればなるほど、他人の死には無関心になり、一人死んだ、二人死んだといったような、ただの数値として把握されるようになる*3。また、関心を持ったとしても、肉親を想う場合と等価ではありえないだろう。

お互いの関心を維持できるコミュニティのサイズには、おのずと限界がある*4。理想的な相互贈与経済を維持するには、「150人の法則」(もしくは「ダンバー数」)なんていうように、まぁ、150人ぐらいが限度なのかもしれない。それを超えると、文字と貨幣による交通が必要になってくる。

「什伯之器(什伯人之器)」の意味に関しては諸説あるのだそうだ。

蘇轍の解釈するように、本来「什」は十人の長、「伯」は百人(またはたくさんの人の)の長のこと*5なので、もしかしたら「貴人が使うような立派な器(道具)」という意味にとるのが一番いいのかもしれない。

「使民復結繩而用之」はよくわからない。『易』によると「上古は縄を結んで収まる」とあり、契約のしるしなのだという。

せき‐じょう【赤縄】
《昔、韋固(いこ)という青年が異人に会い、袋の中に入っている赤縄で男女の足をつなぐと、どんな間柄でも離れられない仲になるといわれたという唐の「続玄怪録」にみえる故事から》夫婦の縁を結ぶという赤い縄。転じて、夫婦の縁。

せきじょう【赤縄】の意味 - 国語辞書 - goo辞書

知らなかったけどこのような用法もあるらしい。さしずめ「運命の赤い糸」といったところか。

ただ、文字(数字)代わりに結繩を用いると解釈して、「文字を捨てよう」という意味に解釈したほうが意味が通りやすい気がする。老子は「贈与―交換」問題に敏感だったように自分には感じられるので、「文字(ひいては貨幣)を捨てよう」という主張にとったほうが含蓄があるように思う。

キープ(Quipu)は、インカ帝国で使われた紐に結び目を付けて数を記述する方法。縄の結び目の形で数を表現するため、「結縄(けつじょう)」とも呼ばれている。「結縄」は、中華民族の始祖とされる伝説の伏羲が行ったとされ、また、日本列島では、沖縄や房総半島や北海道で昭和時代まで使われていた。

キープ (インカ) - Wikipedia

伏羲がおこなった「結縄」と、「上古は縄を結んで収まる」が同じことを言うのかについては、自分はよく知らない。

ともあれ。

普通はこの章を、老子が描く「理想郷」ととらえるのが一般的だ。けれど、個人的には少し疑問を感じる。

老子』は「逆説の書」とも評される。一般的には当たり前とされている概念――柔らかいものより硬いものの方が強い――の逆――柔よく剛を制す――を提示して、モノゴトを相対的に見るように導いてくれる。『老子』を読むならば、その視点は常に失いたくない。そもそも、「小国寡民」が「善い」だなんて、一言も書かれていない。だったら、この章は「小国寡民」のダメなところリストとしてとらえることもできるんじゃないかな。「使民(民をして~しむ)」だなんて、「無為自然」に反していない?

そう考えれば、「小国寡民」からはいろいろな“無理”を読み取ることができる。

おもちゃがあれば、それで遊びたいでしょう。隣の家からいい匂いがしたら、晩御飯が何かって気にならない? それを我慢するのって、かなり大変なことじゃないかな。「小国寡民」を徹底するなら、北朝鮮みたいに情報統制でもするしかない。ブータンはそれよりは自由だろうけれど、これから先の発展次第では、「自分たちは幸せだ」という確信を維持するのが難しくなっていくかもしれない(幸福の国ブータンの携帯電話事情)。

小国寡民」はひとつの理想だけど、現実問題として「使民」するのは難しい。ただ単に「小国寡民、ヒャッホー!」と読むのではなくて、矛盾や無力感を感じながら読むほうが、『老子』にはあってるかなと感じる。

自然に「小国寡民」を実現する方法って、ある?

*1:あっちはあっちで幸せだろうけど、こっちの自由を捨てるほどではないかな、と思う

*2:神輿の「こし」

*3:乗客に日本人はいませんでした

*4:「小國寡民」はそれを賛美する章ではなく、単にその法則を明らかにするための章だったのかもしれない

*5:ちなみに「伍長」は……もう言わなくてもわかるよね!