『自由論』
執筆日時:
- 作者: ジョン・スチュアートミル,John Stuart Mill,斉藤悦則
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2012/06/12
- メディア: 文庫
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学生時代に読んだことがあるけれど、新しい訳でもう一度。光文社の古典新訳文庫の文章は、どれも読みやすくていい。
いまは亡き女性の、いとおしく懐かしい思い出のために本書を捧げる。
前書き、いいですね!
社会的な自由
本書のテーマは、いわゆる意志の自由ではない。……市民的な自由、社会的な自由についてである。
おサルさんに許された、自然に・気ままに振る舞う自由のことではなくて、“市民社会(Civil Society)”で暮らすにあたって、やっていいこととやってはいけないことがこの本のテーマになる。
危害の原理(他者危害原則 harm-principle)
本書の目的は、きわめてシンプルな原理を明示することである。……
その原理とは、人間が個人としてであれ集団としてであれ、ほかの人間の行動の自由に干渉するのが正当化されるのは、自衛のためである場合に限られるということである。
たとえ相手にとってよいことであるとしても、それを権力や刑罰をもって強制することは許されない――これはかなり厳しい原則だな。
ミルはこの原理に対して、二つの例外を設けている。
- この原理は成熟した大人にのみ適用される。未成年には適用されない。
- 同じ理由により、民族そのものが未成熟だと考えられる“遅れた社会”も対象から除外する。
前者は許すとしても、問題は後者だろう。この考えは危険だ――他民族を支配する正当性の根拠に悪用されてしまいかねない。
野蛮人を進歩させるのが目的であれば、野蛮人にたいしては専制政治が正当な統治方法なのである。手段は目的の実現によって正当化される。
個人的な意見を言わせてもらえば、たとえある国が独裁者の圧政に苦しみ、基本的人権が著しく侵害されていたとしても、ほかの国がその国へ軍事介入するのはよくないことだと思う。野蛮人が野蛮人でいたいと願うなら、彼にはその権利がある――ただし、ほかの人を害さないという原理を守る限りにおいて。それが守られないときに懲罰を受けるのは仕方ない。それが嫌なら、“市民社会”から出ていけばいいだけのことだ*1。
無論、これには反論もあるだろうけれど。
思想の自由
自分の意見をもつ自由、その意見を率直に表明する自由、それは人間にとって絶対に必要なものである。
これは、充実した人生の大前提となる、人間の内面の充実のために必要なことなのだという。
感心したのは、ミルが議論の価値を、倫理学的な正しさ―― true or false ――ではなく、もっとダイナミックなもの――活力とでも呼ぶべきか――ととらえているところ。つねに反対意見にさらされ、活発に反論することによって、その議論は活力をもつ。
ミルが警戒するのは、議論に活力が失われ、意見の画一化が進み、少数意見に対して不寛容になり、独創的な意見や着想をもつ人たち(天才)の活躍の場が失われること。進歩が抑圧され、民主主義は機能不全に陥り、社会全体が停滞する。
公と私の境界
- 内面における良心の自由
- 人生設計における目的追求の自由
- 家庭生活や友人関係を含む、個人間の団結の自由
社会や経済がいくら肥大化したとしても、それには支配されない、自分が自分が支配できる領域を、すべての個人はもってよい。
*1:これができないという問題については、またいつか考えてみたい