漢文のヤバさ――舟中之指可掬也
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『十八史略』 - だるろぐ の続きのようなもの。漢文の表現力はヤバい、という例を一つだけ挙げておきたかったのだけど、書くのを忘れていた。
潘黨既逐魏錡,趙旃夜至於楚軍,席於軍門之外,使其徒入之,楚子*1為乘,廣三十乘,分為左右,右廣,雞鳴而駕,日中而說,左則受之,日入而說,許偃御右廣,養由基*2為右,彭名御左廣,屈蕩為右,乙卯,王乘左廣,以逐趙旃,趙旃棄車而走林,屈蕩搏之,得其甲裳,晉人懼二子之怒楚師也,使軘車逆之,潘黨望其塵,使騁而告曰,晉師至矣,楚人亦懼王之入晉軍也,遂出陳,孫叔曰,進之,寧我薄人,無人薄我,詩云,元戎十乘,以先啟行,先人也,軍志曰,先人有奪人之心,薄之也。遂疾進師,車馳卒奔,乘晉軍。桓子*3不知所為,鼓於軍中,曰,先濟者有賞,中軍下軍爭舟,舟中之指可掬也。
『春秋左氏伝』の宣公十二年の記事より*4。この年、晋・楚の間で邲の戦い(ヒツの戦い - Wikipedia)が起こり、晋軍の中軍と下軍*5は楚軍によってさんざんに破られた。その時の描写が、中軍下軍爭舟,舟中之指可掬也。
「(敗れた晋の)中軍(と)下軍(の兵士)は(長江を渡って北へ逃げるために)舟を奪い合い、舟の中には(舟にしがみつく兵士を排除するために指を切り落としたため)指が
何がヤバいって、「掬す(キクす、手ですくう)」がヤバい。
「掬」という字は、「手(てへん)」で「包む(勹:つつみがまえ)」ことを意味する。その手の中には、「米」のような粒々でビッシリと埋め尽くされている。よく似た漢字である「菊(キク)」をイメージするといいかもしれない。菊の花も、花びらがびっしりと詰まっているでしょう?
あれが、全部、指なんだぜ。
「舟中之指可掬也」のたった7文字で、「逃げようと舟にしがみついた兵士の指を切り落とし(て排除し)た」という血なまぐさい光景を、いともアッサリと表している。情景が目に浮かんでくるようで、初めて読んだとき、思わず体がブルブルッとしたのをよく覚えている。
もっとも、これはあまりに傑作だったせいか、結構有名な表現になっていて、たとえば三国志(厳密に言えば『後漢書』董卓伝)にも出てくる。
爭赴舡者,不可禁制,董承以戈擊披之,斷手指於舟中者可掬。
董承はときの皇帝・献帝を守っていたが、李傕・郭汜に敗れて敗走する。やっとのことで舟を確保し、川を渡って逃げようとするが、「俺も乗せろ」と皆がしがみつく。これでは転覆してしまうと制止するも、だれもいうことを聞かない。そこで董承は戈を振るい、しがみつく人々の手指を絶ってこれを振り切った。
まぁ、こんな血なまぐさい表現ばかりでもないけどね。たとえばこれなんかどうだろう。
余生欲老海南村
帝遣巫陽招我魂
杳杳天低鶻没処
青山一髪是中原
蘇軾 - Wikipedia の詩。蘇軾は62歳のときに、権力闘争に巻き込まれて遥か海南島にまで左遷されたのだけど、66歳のときようやく皇帝が交代して帰国が許された。
やっと帰れる!
そういう気持ちがこもった歌。この何がヤバいって、「青山一髪是中原」がヤバい。
海南島から見る中国大陸。水平線の向こうにうっすらと、一本の髪の毛のように大陸が見える。「中原」ってのがさらにヤバい。中原というのは、中華文化の発祥地である黄河中下流域のこと。蘇軾の故郷であり、そして文化の香る地でもある。東京で生まれ育った人が、南極あたりに10年ぐらい転勤させられたあとに帰ってきたときの気持ちに近いのかもしれない。
結局、蘇軾は“中原”に戻る途中で亡くなるのだけれども、大陸に足を踏み入れられただけでも幸せだったのかもしれない。