『人類最古の哲学 カイエ・ソバージュ(1)』

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人類最古の哲学 カイエ・ソバージュ(1) (講談社選書メチエ)

人類最古の哲学 カイエ・ソバージュ(1) (講談社選書メチエ)

暇つぶしに買ったけど、おもしろかった。とはいえ、愛と経済のロゴス カイエ・ソバージュ(3) (講談社選書メチエ) を読んだことがあったので、ハズレはないだろうと思っていたのだけれど。古いブログ(愛と経済のロゴス - www.be-styles.jp)を読み返していたのだけれど、どうやら 贈与 と 経済学、そして 共和主義 を繋げてみたいという考えはこの本から着想を得たらしい*1。それにしても「ほかのシリーズも読んでみたい」と書いてから実際に読むまでに3年を要したのだから、自分の鈍重さにはちょっと呆れる思いがする。

少し脱線した。この本の話に戻そう。

古代人の知性、論理からこぼれた不思議の結晶

ときどき古代の人は知性が劣っていて、現代の人はすぐれた知性をもっている、といった主張をする人がいるけれど、それは全くの間違いだと思う。たとえば、レオナルド・ダ・ビンチは累乗の計算ができなかったらしいけれど、それができる僕よりも知性が劣っているとは言えない。ただ、アクセス可能だった知識に差があっただけのことだ。発想や論理の能力でいえば、ダ・ビンチのほうがよっぽど優れている。

だから、こんな一見不可解な神話を見聞きしたからと言って、即座に「古代人は無知蒙昧だった」と決めつけるのはよくない。神話にだって、その芯は論理によって貫かれている。ただ、当時はまだ広く知られていなかった科学的事実が多く、現代の知識からみると突拍子のないストーリーになっているだけだ。

たとえば、古代人が「春はなぜ訪れるのか」という疑問に“論理”的な答えを出そうとしたとしよう。

彼らは「春の訪れにはかならずツバメがやってくる」ということを知っているが、地球の公転や自転、大気の運動についてはよくわかっていない。なので、この限られた情報から「ツバメが春を連れてくる」という答えを出す。これはアホなことだろうか。古代の人だってちゃんと論理を駆使する。けれど、事実・知識を欠いた論理では埋まらないピース――“不思議”――はどうしても残る。

この例における“ツバメ”は、そういった“不思議”が凝縮したものだ。ツバメは汚らしい土を捏ねる。なぜ?――わからない。ツバメは軒に巣を作る。なぜ?――わからない。ちゃんと論理だてれば論理だてるほど、当時の知識では埋まらない“不思議”がある特定のポイントへ凝縮されていく。

そういったたくさんの“不思議”を背負い込んだとき、“ツバメ”は特殊な意味を帯びる。春や雛に代表される“生”のイメージと、冬や泥から想起される“死”のイメージの両方をもつ「媒介者」になる。「媒介者」はストーリー上のトリックスターであり、“不思議”を凝縮したいるがゆえに崇拝を集める存在であり、同時に畏れられる存在でもある。

本書で扱うのは神話には、そんな「媒介者」に満ち溢れている。

たとえば、マメは“クリトリス”を象徴し、女性を表す。と同時に、男性の“金玉”を指す言葉でもある。豊かな恵みを表すと同時に、隠された神秘の象徴でもある。だから、互いに異なる論理を結び付けたり、論理を転換する起点として働くことができる。『ジャックと豆の木』なんかもそんなロジックを使った寓話なのかもしれない*2

と、まぁ、全然説明になっていないけれど、そんな感じで面白いのでお勧め。神話を紐解く作業は謎解きのようで楽しいので、ぜひ直に手に取ってほしいなと思う(本稿で書いたことは、本書の内容を厳密になぞったものではないので注意。ネタバレしたくないので、いろいろボヤかしているけど、そんな感じのことだってこと!)。シンデレラの話とか、古代インド神話の神酒<ソーマ>の話とか、愉快な話満載で楽しい。わしだったら、ソーマは飲みたくないぞ!!

チンコ論争

この神話を呼んでちょっと思い出したのだけど、小学校の頃だったかな、もしかしたら中学生のころかもしれない。クラスでのちに“チンコ論争”と呼ばれる*3大論争が巻き起こったことがあった。

きっかけは、一部のクラスメイトが「チンコは骨でできている! でなければあんなに硬いはずがない」と主張したことだった。

これに対する「充血して硬くなるんだ」派は、「柔らかいときにその骨はどこへ引っ込むのか?」という強力な反論を提出し、クラス内の良識派を中心に幅広い支持を受けていた(わしも属していた)。しかし、血が集まるだけであの強度が達成できるのか? という疑問に明確な答えを出すことができず、「ちんこは骨」派を完全に打ち負かすことはできなかった。

そんななか、どっちともつかず派が「チンコは折れるのか?」という疑問を呈したのが事態をさらに混沌とさせた。「ちんこは骨」派にも「充血ちんこ」派にも、「折れる」派と「折れない」派による分裂が発生したうえ、「やばいときはふにゃちんになればいい」という斜め上の意見を主張するものまで現れ、その実現可能性が真剣に討議された。

もしあの時、古代人が神話を紡ぎだしたような知性が僕たちに備わっていれば、きっとみんなを満足させる素敵なストーリーが生まれただろうになぁ。そう思うと、ちょっと惜しいことをしたと思う。神話を生み出し損ねた。

*1:そんなことすら忘れていた!

*2:ちょっと先走ると、こうした寓話に「観念の王国」が気付かれると、それは宗教になる。自然に根付いた神話と、そこから離陸した宗教の違いは、このシリーズの違う本でまた題材にされるのかもしれない

*3:わしが今命名したんだけど