共和体について
執筆日時:
個人的な考えを言わせてもらえれば、共和主義とは「共和体による自由を自覚・尊重し、それを発展・維持していこうとする考え」なのかなと思う。かつて、自分は自由を4つに分類してみたけれど*1、
要するに、人間の自由の多くは(原始的な自由の一部を犠牲にして)協力すること、社会をなすことに依っている。そのなかでごくごく当たり前になっている権利を普遍だの、基本的だのと称して社会的前提とすることはあるけれど、それも共和体が滅びれば――ホッブズのいう“万人の万人に対する闘争”というのがその状況かもしれない――まったくの絵空事になる。
すなわち権利は「ネーション」から生れるのであって他のどこからでもなく、ロベスピエールの言う「地球の主権者たる人類」 からでは決してない。
――アーレント
「ネーション」とはつまり、ここでいう“共和体”のことだ。古代に“レス・プブリカ”と呼ばれたものもそれだし、近代で“市民社会”と呼ばれるものもそれに含まれるように思われる。権利の源泉はリクツなどではなく、あくまでもこうした共和体だ。震災などで日常経済が破壊されるや“絆”だの“助け合い”だのという古い家族的、氏族的、古典共和的観念が持ち出されるのも、その傍証ではないだろうか。コインを入れたらジュースがでてくる機械的な社会でさえ、裏ではそういうものに支えられている*2。
さて、それでは、このネーション、共和体、レス・プブリカ、市民社会というのはいったい何なのだろう。どういう特色を持つのだろうか。そこで思い出されるのが、このブログでもたびたび引いている共和主義者の言葉だ。
PATRES CONSCRIPTI INSIEME
(建国の父よ、新たに加わった者たちよ)
あなたはフィレンツェ人たちのたいへんな志操堅固さを、またそれがこのように作られた共和国を愛するがゆえであることを、間違いなくご存じでしょう。あなたのご主人の志操堅固さは、たとえ偉大極まりないとしても、束の間のモノです。なんとなれば、それは一人の人間の生涯の間しか安定できぬからです。しかし共和国は続くのです。
――カヴァルカンティ『フィレンツェの歴史』
これらの言葉を手掛かりに、共和体の特徴を考えてみよう(手掛かりにするのは最初だけだけどw)。
共和体に必要な条件
まず、共和体は新しい参加者を受け入れ、古い参加者が去るのを通じて、その参加者以上に長い生を得るものであるから、以下の3つは当然のことのように思われる。
- 創業と守成:共和体は誰かが作り、守られる(→ 創業の問題と、守成の問題。構成員にとっては新規に契約するか(社会契約)、既存のモノへの参加を強いられるかの問題)
- 構成員:共和体には構成員がいる。構成員が出入りしても、共和体は維持される(国と違い、領土は要件ではない)
- 持続性:共和体の寿命は、構成員の寿命より長い(結果はともかく、少なくとも生存している間は構成員にそう望まれている)。
たとえば、人間の体は細胞などから成り立っているが、それは常に生まれ・死んでいくので、何年か経つとまったく異なる細胞へ入れ替わってしまうともいう(知らんけど)。換骨奪胎とでもいうのだろうか。そういう点では、人間の体も共和体の一つに数えられるのかもしれない。
ただし、細胞は意志をもたない(たぶん)ので、ここでの共和体の定義からは外しておこう。
- 意志:共和体の構成員は自由意志を持つ
- できれば、構成員は所属共和体に愛着をもつが、それも自発的であることが望ましい(→ 愛国心の話)
- 自由意志を束ねる“理念”が要請される場合がある
- 参加する意思に関しては、今回は棚に上げておく(→ 国籍の問題、「俺は社会契約をした覚えがない」問題)。ただし、脱退は意志により可能とする(他の共和体がそれを受け入れるかは、あとで述べる“境界”のポリシーによる)
その点、コミケのサークルなどは人間の体よりもよっぽど共和体と呼べそうだ。自由意志によって集まったメンバーが協力し合い、規模の大きいものになれば、構成員の入れ替わりなどもあるのだろう(知らんけど)。
ただし、寿命があまり長くない点や、やはり特定の個人の力量・魅力に大きく依存している点には少し不満が残る(中心となる人物が抜けることでサークルが崩壊する……なんてのはよく聞く話だ)。ワンマン社長の気まぐれで解散してしまう会社も、一応は共和体であるものの、共和体とはあまり呼びたくない気がする。なので、もう少し定義に制限を加えてみた方がいいかもしれない。
- 構成員の代替可能性:共和体の構成員はできるだけ均質的(に優れている!)で、代替可能(とりかえがきく)であることが望ましい。リーダーシップをとる構成員がいても構わないが、その立場はその構成員の意志のみによって意中の構成員へ継承されるべきではない
- ある程度の規模:そのために、ある程度の規模を必要とする
これで共和体と呼べる組織はかなり限られることになる(それでも十分に多く、多種多様だ)。ところで、学校は共和体と呼べるだろうか。小学校は構成員の自由意志という点で少し疑問が残るが、中学、高校と上がるにつれて、共和体に似てくるような気もする(かなり端折るが、学校(義務教育)とは市民社会へ参加するために構成員(市民)の養成を行う仕組みで、民主主義的共和主義の誕生とともに作られた)。
しかし、高校までの学校はどうも“制度”によって作られたという印象をぬぐえない。その点、大学は生まれから考えても(高校までの学校と、大学では由来が異なる)完全に共和体であると考えられる。このことも定義に加えてもよいだろう。
- 自己制定・改定可能な制度:共和体は(構成員の動議→討議→決議→実施によって)自分を規定する制度を変えられる(政治体制としての共和主義の根幹)
- 自立:好ましい共和体は、自立している。他者の介入を(結果的にはともかく、なるべく)許さないための気概と準備をもつ。共和体がさらに共和体をなすことも、自立が不当に制限されない限り許容される(→ 市民武装論)
- 与えられた制度ではなく、自らで決めた制度を持つ(「日本国憲法は押し付けられたのか」問題)
最後に、世界市民主義的な考えを排除しておく*3ために“境界”の要件を加える。
- 境界:共和体は“境界”を持つ。参加メンバーと、それ以外のメンバーには扱いに差がある(贈与が流れ出ないようにするため。ただし、共和体間交易のことも考えて、客(≒いつか去るもの)に親切にするのは共和主義的なマナー → 『永久平和のために』)
とりあえず思いついたのは以上だけど、まだまだあるのかもしれない。
ともあれ、社会的人間としてのヒトは、共和体のなかで互恵と交換を通じ、原始的自由と引き換えに社会的に自由を拡張する。外に向かってはともかく、内に向かっては争いが司法に召し上げられ、所有を保証される。その上で、(共和体の持続性の見通しによるが)より長期的な視野に立ち、貯蓄と投資、ジョブ形成を行う。その日暮らしのサルから、自分の人生を設計するヒトになる。
共和体の典型的なライフサイクル
初めての共和体がどのように構成されたのかを僕たちはみることができないが、それ以降の共和体に関しては、歴史(と発達したリアルタイムメディア)を通してある程度知ることができる。
- (ホッブズのフェイズ:とりあえずわやくちゃな状態)
- マキャヴェリのフェイズ:現状への不満が高まり、現在の政治体制・状況(コンスティテューション:国体・憲法)を変える・新しいそれを設立するという機運が高まる
- ルソー(創業)のフェイズ:革命や外圧により、政治体制(コンスティテューション)が改まる
- → 多くの共和体は、ここで諸勢力の政治的占位を一つに確定できず、内乱の中滅びる
- 守成のフェイズ:創業の中心からも合法的に暴力を取り上げ、法により支配を確立する
- → これができない場合、リーダーの一代限りで共和体は滅びる
- 継承のフェイズ:コンスティテューションが破たんしない限りでできるだけ流動的に、構成員の入れ替えがスムーズに行われる
- → これに失敗した場合、共和体は3代以内に崩壊する
- 興隆のフェイズ:コンスティテューションを維持しつつ、共和体構成員の多くが利潤を受け取るには経済を拡大するしかないので、なにかのリソース制約を受けるまで、共和体は拡大する。うまくいっている場合、小さな不満は簡単に鎮圧されるため、共和体は安定期を迎える。このフェイズの長さが、共和体の寿命の多くを決定づける
- 共和体が<帝国>へ脱皮することもある
- 興隆の裏で、矛盾が蓄積するというのが歴史的なパターンらしい
- 崩壊のフェイズ:何らかの制約により経済成長が行き詰まり、矛盾を誤魔化せなくなる。反体制的な運動が抑えられないようになり、共和体は行き詰まる。
- 改革によって延命できるケースもある
- 改革の失敗 → マキャヴェリのフェイズに続く
共和体はよりよい組織の在り方だと信じるけれど、いつかは出入りのバランスが崩れたり、中の流動性がなくなり、状況に合わせて自己を変えられず、死ぬ。でも、その死ですらもっと大きな、神話的なネーションの中に内包されてしまってたりするっぽいけど*4……そういう話は、このエントリの手に余る。