清貧について

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清貧は美徳だ――とされている。少なくとも、一部の宗教や倫理観、哲学においては。それはなぜなのだろう。

まず、清貧の“効用”を考えてみる。

たとえば、生活水準を低く保っておけば、理不尽な理由で財や日々の糧を喪ったときに、精神的負担が少なくて済むかもしれない。行動経済学でも明かされているように、人間というものは得た時の喜びよりも、同じ量であっても失った時の悲しみの方が大きく感じられるものだ。ただ、これは「喪うのが怖いからそもそも持たない」というちょっと後ろ向きな考え方のような気もする。

しかし、同じ“理不尽な理由”でも、受動的であるのと能動的であるのとでは少し意味は違うかもしれない。

受動的というのは、たとえば災害などがそういえると思う。「喪うのが怖いからそもそも持たない」「フラれるのが怖いから、あえてこちらからは告白しない」といった考え方だ。それでは一生モテることはないが、少なくともフラれる苦痛からは逃れられる。

一方、能動的というのは“理不尽な理由”をあえて望むことを指す。たとえば世の中には理不尽なこと、自分の力では及ばないことがままあるが、それを克服してなにか達成してやろうとか、変革してやろうとか、できるかぎり抗ってやろうなどと決意するとき、すでにもっている富への執着、係累に迷惑がかかるのではないかという不安、いくばくなりとも培ってきた評判を喪う恐れが邪魔になってしまうことは大いに考えられる。これは「フラれるのが怖いから、あえてこちらからは告白しない」という考え方とは少し違って、どちらかというと「全国制覇に集中するから、高校生活に彼女なんて要らない(キリッ」といった決意の方に似ている。

要は、“清貧”というのは“能動的決意に基づく貧乏”を選択することによるアンチ運命戦略のことを言うのだ。理不尽な運命、容易に想定しうる大いなる困難に抗ってでも、敢えてそれに対して自由でいようと思えば、自然“清貧”たらざるを得ないだろうし、そうあるべきだ。ただ“貧乏”であるならばそれは誇ることでもないけれど、なにか成し遂げようとして“清貧”なのであれば応援したいとも感じられる。

しかし、一方で“清貧”そのものにはとくに価値を認めるべきではないのではないだろうか。“清貧”はあくまでも理不尽な運命にあらがう「手段」の一つに過ぎない。だから、その評価は“清貧”がなにを「目的」としているか、その「目的」は果たして達成されたのかによって為されるべきではないだろうかと思うし、“清貧”に頼ることなく(周囲の尊敬を得られる方法で、もしくはマキャベリが肯定する方法であっても)「目的」が達成できれば、それはそれでとても偉大なことなのではないかと感じる。だとすれば、「あいつはよくやったけれども、“清貧<ストイック>”じゃないから評価できない」というのもなんだかおかしい話だ。ましてや“教義”にしたり、“清貧”自体を徳目に数え上げるのはどうなのだろうか。

――というのを、道家(とくに老子的ではなく荘子的な)と墨家の清貧についての態度の違いを考えたときに思いついた。

同じ“清貧”であっても、なぜ前者は逃避的で、なぜ後者は挑戦的なのか。これは「目的」(≒理想)のあるなしや、運命に受動的に対応するか能動的に克服しようと図るかの違いだった。けれど、両者とも、なぜ“清貧”が尊ばれるのかといった本質を、時代を経るにつれて喪ってしまったのではないかな。“清貧”によって達成したい自由、守りたい矜持、獲得したい名誉にこそ意味があるのだと思ったけれど、それらが本当に「意味をもつ」のかは別の機会にまた考えてみたいと思う。