Labor と Work について
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割りと腹が立ったので書いておく。旧ブログでも一度書いた気がするが、もう消えているようなのでもう一度書いておく。
同じ「働く」ということでも、Labor と Work とでは違う。
Labor は単なる「労働」だ。会社が賃金として評価している。カネをもらっているのだから、そこで評価は終わり。だから、俺が同僚の Labor を評価することはない。
一方、Work は Labor 以上の“何か”だ。ただ言われたことをしたり、ノルマを果たすだけではなくて、なにかプラスアルファの自己判断や工夫がそこにはある。だからそれは「仕事」と呼びうるし、Work に対しては尊敬を払い得る。回転寿司で寿司握るだけならそれは「労働」だけれど、何か工夫をして旨くしたのならば「仕事」と呼びうる。まぁ、できたら会社も Work を評価して、賃金を上げてほしいけれど、需要・供給では測れない価値なのでなかなか難しい。
さて、めんどくさい話をすれば、Labor は社会的・客観的・平均的・抽象的労働のことを指す。
時給850円でバイトを雇えば、バイトは社会的に見て・普通のひとならば誰から見ても納得できる・平均的な・汎用的な労働力を発揮するべきだし、それが期待されている。だから、Labor は同一労働・同一賃金であるべきだ。女性だから安いだとか、年齢が高いから安いだとか、中国人だから安いだとかはあるべきではない。発揮できる労働力とその時間だけが尺度であるべきだと思う。
ただし、このような労働は簡単に代替できるものだし、平均以上の能力を発揮するように社会的に強いられもする。だから、やりがいは得にくいし、辛いものでもある。ある意味割り切って働ける人でないと、なかなかしんどいよね。
こういう議論が読みたければ、マルクスの『資本論』第1巻がお勧め。働くことを考えるうえで、この本は避けて通れないと思う。
- 作者: カール・マルクス,資本論翻訳委員会
- 出版社/メーカー: 新日本出版社
- 発売日: 1982/11/01
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ただ、マルクスは Work についてはあまりよく考えなかった。これは別にマルクスが悪いわけではなくて、本書の目的たる資本運動の分析には関係ないからだ。
資本主義社会において、Labor は前提とされている。労働者を封建的な隷従から“二重に”開放し、それをミキサーに入れてすりつぶして、大きさの同じ団子に丸めたのが Labor だ。生きるために仕方なくやる、合法的な奴隷システムというのがマルクスが見た Labor にあり方だった。
資本主義社会ではとりあえず、最低限 Labor しなきゃいけない。だから日本刀の伝統を今に伝える刀工や、文系学部のオーバードクターなんかは辛い。客観的にいえば彼らの Labor は社会的に不要(少なくとも今時点においては需要されていない)で、ゆえに交換価値(≒賃金で表せる価値)がない。けれど、「働く」ということの意味はなにも Labor だけではない。Work という側面から見れば、彼らは決して無価値ではないはず。
Work をお金で評価するのは難しい。けれど、ルーチンワークを回して組織を維持するだけならともかく、何か発展的なものを得ようと思うのならば、そこには Work がなければならない。なぜなら、Labor はすでに社会的・平均的に価値の定まった労働に過ぎず、それはなんら付加価値を生まないからだ*1。要するに、過去的なものであって、そこにはなにか未来に対して・未知のものを生む要素はまったくない。何か革新的なことを為した人は、Labor に加えてかならず Work していたハズ。
Labor はいずれ機械やソフトウェアによって代替されうるだろう。けれども、Work は多分そういうわけにはいかない。
Labor はいずれ磨滅していくであろう。けれども、Work はきっと価値を失わない。
Labor はいずれ使い捨てられていくだろう。けれども、Work はかならずしも社会的に認められずとも、きっとその分野では評価されるだろう。
資本主義社会において Labor は当たり前のものとして強いられている。けれど、Work するのは資本主義からは自由だ。自分が会社で記事を書くのは Labor (と、ほんのちょっとの Work)だが、自宅でブログを書くのは Work だ。これは完全に、自分の自由のもとにやっている。自由でありたい人は、ブログでも何でもいいから、そういう Work をもつべきだ。
(自分がベーシックインカムを主張するのも、悲しいぐらい Labor に不適格な人間には実際にいて、そういう人間には基礎給付を行って Work に専念させたほうが社会的に望ましいと思うから。基礎給付の水準については、まぁ、いろいろ意見はあろうけれど)
とにかく Labor と Work には、それぐらいに意味の違いがある。だから、Labor しただけで Work した気になっているヤツをみると、イラッとしてしまう。ラッダイトなんて笑わせるね。生きた Labor が死んだ Labor を叩き壊してるだけで、そこにはなんら生産的な Work がない。そんなことをしている間にも、世界は Work によって豊かさが追加されていき、その分だけ相対的に Labor の価値が下がっていくのに。
*1:俺は“付加価値”という言葉が大っ嫌いだが、ビールを飲んでいてほかにいい言葉が思いつかなかったので、血涙を流しながら用いる