自然状態について、など。
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とある本に、こんなことが書いてあった。
個人が国家を作るのであって、その逆ではない。国家が死滅しても個人は残るのだ。
これは、自分代わりと好んで引用する(res publica --しかし共和国は続くのです。 - だるろぐ)この言葉の対極に位置している。
あなたはフィレンツェ人たちのたいへんな志操堅固さを、またそれがこのように作られた共和国を愛するがゆえであることを、間違いなくご存じでしょう。あなたのご主人の志操堅固さは、たとえ偉大極まりないとしても、束の間のモノです。なんとなれば、それは一人の人間の生涯の間しか安定できぬからです。しかし共和国は続くのです。
カヴァルカンティ『フィレンツェの歴史』
結局、個人あっての国家(共同体)なのか、国家(共同体)あっての個人なのか。
現代では割りと前者の考え方が体制を占めている(自分も基本的にこれに同意する)。これには、恐らく前世紀に“全体主義”を経験したことが大きく影響していると思う。
一方で、行き過ぎた個人主義が伝統的な道徳を破壊しているのもよく目にする。若い世代のなかには「戦争を待望する」みたいな文章を書いて名を売るひとが実際にいるし、ハイパーインフレを過剰に軽視する意見も根強い気がする。
でも、僕らが享受している自由(≒可能性)の多くは、既存の・伝統的な枠組みに支えられている。たとえば、僕は毎日机の前でテキストを書いてお給料を貰っているが、戦争だのハイパーインフレだのになれば物乞いに落ちるしかないだろう。無論、理不尽な差別やいじめの構造、持続性に欠ける社会保障制度なんかは改革でも革命でもなんでもされてしかるべきだけど、壊していけないものもあると思うし、よりよいカタチでそれを次世代に譲り渡す義務(?)だってあるんじゃなかろうか。
僕は日本に生まれてだいぶ得をさせてもらったと思う(自分が自由と呼ぶのはその“得”のことなのかもしれない)。ぜひ次世代のひとにも、この得を楽しんでほしいと思う。また、この得を与えてくれたひとたちにも、感謝しなkればならないと感じる(それが共同体≒相互贈与システムが続いていくための法則!)。
結局、個人が蔑ろにされれば国家が否定されるし、国家が蔑ろにされれば個人主義が批判されると言うだけの話で、どっちの側からも――中庸?――モノが見れるのが大事ってことなんだろうなぁ。ありきたりで陳腐な意見に落ち着いてしまった。
で、ふと思ったのだけど、リベラリズムの古典では議論の出発点として“自然状態”が前提とされることが多い。で、そそこでは“個としての人間”が描かれていることが多い。たとえばルソーの自然状態では――今手元にテキストがないので引用できないのだけれど、善も悪も知らず、互いにあまり交流のない、争いのない世界が想定されていたと思う。
でも、それって本当に“自然状態”?
むしろ、生まれた時から家族や氏族、ムラ、マチなどの中にいることを前提としたほうが人間にとっては“自然”な気がする。それを端折った議論をすると、保守主義の側からすれば自分たちが大事にしている家族や氏族、ムラ、マチなどの価値が不当に貶められているように感じちゃうのだろうね。
逆に保守主義・共和主義の弱点は、家族や氏族、ムラ、マチを前提とし過ぎていることなのだと感じる。そういうセーフティネットがある人間を“自然”なものと前提し、それをもとに制度を設計してしまう。だから、それを失ったひと、もともと持たないひとに対しては厳しい。持たないひとは、努力をしなかった人だと捉えてしまう。ロールズは努力を美徳に勘定しなかったけれど、この点に関しては、そのほうが健全な物の見方だと思う。
自分は基本的に保守主義・共和主義的立場に対してシンパシーを感じる。でも、温かい人間関係を築くためには、個人単位での平等的・機械的な基礎的社会保障は必須だと思う。その意味ではリベラリストかな。同時に、そういった普遍的な社会保障の重要性を理解ぜずに、自分の目に映った弱者を国のお金で助けることで自己の満足を満たしている自称リベラリストに嫌悪を感じる。
でも、それは一部保守主義者に対しても同じこと。人間が愛せる範囲なんかたかが知れている(リベラリストは忘れがちだけど、これはしょうがないこと!)。だから、狭い温情主義としての保守主義を否定したりはしない。けれど、ああいう輩が(あえて言う)しょうもない伝統的価値観を振りかざしてリベラルな保障制度を否定するのは好まない。ベーシックインカムだの、夫婦別姓だの、男女平等だので簡単に壊れてしまう“愛”なんて、自分はしょうもないと思う。
今後の予定
- 各論者の“自然状態”をピックアップしましょう。
- 家族や氏族、ムラ、マチなどを方法論的に前提とした議論を考えてみる。