左派の限界、右派の限界
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ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ベルジャーエフ(ロシア語: Никола́й Алекса́ндрович Бердя́ев, ラテン文字転写: Nikolai Alexandrovich Berdyaev ,1874年3月18日(ユリウス暦3月6日) - 1948年3月23日)は、ロシアの哲学者。もとはマルキストであったが、ロシア革命を経て転向し、反共産主義者となる。神秘主義に基づき文化や歴史の問題を論じた。十月革命後にパリに亡命。1922年、レーニンの革命政府によって国外追放。
「民主主義は人間を、算術的単位、数学的にあらゆる他と同一視しており、有機的全体としての国民は原子に分解し、それから機械的集合として集められる」(ベルジャーエフ)
最近、Twitter でこんな BOT もフォローしてるのだけど(そのうちネタが尽きて同じことをつぶやいているだけに聞こえてしまい、アンフォローする)、少し自分の考えていた“左派”の理論への違和感をうまく表現している。ベルジャーエフというおっさんのことはまったく知らなかったが、とても感覚が鋭いと思う。
左派の限界
経済学などの学問は、積極的に数学を取り込むことで「科学」に近づいている。左派(革新主義)はこの「科学的」「論理的」な学問をもって、感情的・因習的で無知蒙昧な右派(保守主義)を啓蒙する。
けれど、そういった“論理的”な考え方にも穴はある。
たとえば、数学なんかでは交換法則や分配法則というのがあるよね。
でも、こういう考え方を生物学や経済学にもってこようとすると、かならず失敗する。やれ「水35L、炭素20kg、アンモニア4L……を用意して放っておいたら人間になるのか?」だの「景気がよくなればインフレになるのだから、インフレにすれば景気がよくなる」だの。
こうした考えにはいくつかの問題がある。
- 交換: 時間的前後関係を無視して命題を“交換”する
- 分配: 本来、分けて考えてはいけない(≒機能が変質する、不可逆である etc)モノまで分ける
- 限定・捨象: 過度に状況を限定することにより、問題を単純化する(「ただし、~はないものとする。」)。(そのとき)全体に対する影響の低い、ミクロなモノを(ときに無意識に)捨象する
ほかにもあると思うけど、まぁ、いろいろ思いつく。交換と分配は、今考えている“系”が交換法則・分配法則を受け入れるのかを考えてみれば、まだ避けられる*1。けれど、限定や捨象なしに科学は難しい。ここで言っている科学とは、つまり事象の反復再現が可能なモデル(箱庭)を作るということだけど、そもそもこれは僕らの“一回性”に真っ向から対立してる。
実はさっきの Twitter の引用にはこんな続きがあるそうで、その問題にも触れている。
国民は体系的有機体であり、そのなかでは各人独自の存在であり、その質においては不反復的のものである。普通選挙法は、国民生活における質の表現には、不適当な方法である。少数は全一的精神もっている有機的全体としての国民的意志を、より良く、より完全に表現できる。一人であっても、すべての人の量よりも、意志とこの精神をよりよく表現できるものである。
この言葉、後半に同意するかどうかはまた一論あるだろうと思うけれど*2、僕らがそれぞれに“かけがえのない存在”だというのは確か。でも、科学はそれをペッタンコに扱ってしまう。
右派の限界
ただ、こうした科学的な思考ツールを使わずに物事を論ずるというのも、難しい。論理が共有できないならば、なにが共有できるというのか。共感? 信仰? たとえば、“有機体”という言葉。これは科学的論理に対抗するときのいわば決まり文句で、因果関係や時間的順序、作用・反作用の関係を重視し、巨大な命題を分割せず、そっくりそのまま、ありのままを捉えようという態度の人にとっては人気のある言葉だ。しかし、方法論としてはほとんど無意味で、不思議なものは不思議のままにしておくというだけの話だ。結局、このベルジャーエフも神秘主義に行かざるを得なかった。
アホにでもコトバで教えられるモデルを作る。これは保守主義が乗り越えるべき課題なんだろう。
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人間は<歴史的なものの>中にあると同時に<歴史的なもの>は人間的なものの中にある
この言葉はなかなかイケていると思う。
生まれるとき、僕らは母親のおなかの中で生物が進化した歴史をそのまま辿るらしいのだが、それはおなかの中から出たあとも大して変わらないんだろう。“歴史”の大切さについてはあまり深く考えてこなかったが、もしかしたらそういうことなのかもしれない。