そろそろ乙武さんの入店禁止問題について一言言っておくか。
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発端
今日は、銀座で夕食のはずだった。「TRATTORIA GANZO」というイタリアンが評判よさそうだったので、楽しみに予約しておいた。が、到着してみると、車いすだからと入店拒否された。「車いすなら、事前に言っておくのが常識だ」「ほかのお客様の迷惑になる」――こんな経験は初めてだ。
このツイートから始まった一連の騒動は、なかなか興味深かった(失敬!)。
経緯をよく知らない方は、上記リンクでも参照してほしい(自分でまとめるのは面倒だ)。
問題
この騒動にはいろいろな論点があったけれど、まとめるとこんな感じになるのではないかな。
- 『車いすなら、事前に言っておくのが常識だ』は真か?
- 『ほかのお客様の迷惑になる』ことを理由に入店を拒否するのは正しいか?
- 障碍者は常に自分が障碍者であることを事前に健常者に説明すべきだろうか?
- バリアフリーはどこまで“義務”なのか?
- 影響力のある人が公開の場で個人名を明らかにして非を鳴らすのは“私刑”にあたらないか?
- そもそも問題は二人の間のコミュニケーション齟齬にあるのであって、第三者が参入して“炎上”させるのはいかがなものか?
まだあるかしら。個人的には双方の“個別的な事情”にはあまり興味がなく、むしろ第三者の人たちの意見に興味をもった。
二つの価値観の対立
これを大きく分けると二つの立場があるように思う。
- 規範や、それを明文化した法律によって弱者は守られるべきだ
- 余裕のあるものが弱者を守るべきだ
これは、それぞれの弱者観をも表しているように感じられる。
- 弱者はなんらかの基準によってあらかじめ規定できる
- 余裕をもたないものが弱者だ
前者は近代的なリベラル的価値観で、欧米由来のこの価値観が日本には十分に根付いていないことに苛立ちを感じている。
- 『車いすなら、事前に言っておくのが常識だ』は偽である。健常者は障碍者に配慮すべきだ。
- 『ほかのお客様の迷惑になる』ことを理由に入店を拒否するのは正しくない。すべての人は平等であるべき。
- 障碍者には自分が障碍者であることを事前に説明する義務はない(もしくは、平等にすべての人が自分の状態を事前に申告すべきである)。
- バリアフリーは“義務”である。極端な意見になると「バリアフリーを達成できない店は出店すべきではない」
後者は古典的な保守的価値観で、普遍的<グローバル>なルールが個々の事情を無視し、踏みにじることを警戒している。
- 『車いすなら、事前に言っておくのが常識だ』は真である。あなたは特殊なのだから。
- 『ほかのお客様の迷惑になる』ことを理由に入店を拒否するのは場合によっては仕方ない。
- 障碍者には自分が障碍者であることを事前に説明する義務がある。でないと、受け入れの用意ができない。
- バリアフリーは“義務”ではなく“努力目標”だ。
とくにこの場合、乙武氏には自分でサポート要員を雇う経済的余裕があるのだから、それをすればいい。彼に比べれば、雑居ビルで細々と店を営む店主はむしろ立場が弱いぐらいだ。
二つの価値観のすり合わせ
個人的には、前者の考え方は窮屈で、むしろ弱者を疎外する結果になるのではないかと思う。
たとえば、すべての飲食店にバリアフリーが義務化されるとする。すると、小規模な店舗を出すのは難しくなるし、会員制にするなどして実質に障碍者を締め出すような悪弊が広まるだけだと予想できる。また、ルールを逆手にとって自分のよいように解釈する都合のいいバカ*1はどこにでもいるもので、それがますます強者(?)と弱者の溝を深めることも容易に想像できる。
歴史的に見ても、経済的な“余裕”の増大が近代的なリベラル的価値観を生み出したことは否定できない。古典的な保守的価値観のほうが歴史的にも古くて、深く根付いている。それを真っ向から否定してリベラルな価値観を打ち出すのは、アラブの砂漠に突如あらわれる摩天楼を目の当たりにしたかのような違和感と不安を感じる。仮に実現しても、なにかあればあっさり倒れてしまうのではないだろうか。
ただし、古典的な保守的価値観にも弱点はある。
たとえば、自分を弱者であると規定してしまえば、弱者を助ける義務“ノブレス・オブリージュ”を果たす必要がなくなってしまう。これは“大衆社会”という、リベラル的価値観とはまた違った弱者の疎外を生む。保守的価値観においては、弱者の保護が個人の卓越に依存してしまう。つまり、弱いものを助けるのは経済的に恵まれていてしかも道徳的に優れているものに限られてしまう。衣食足りて礼節を知るのならば、衣食足らざれば礼節を知らなくてもしょうがないのではないだろうか*2。
これらの問題を解決する方法など僕にはわからないが、ひとつ、すべてのひとに衣食を足らしめるというのは案外有効なのではないかと思う。
たとえば、ベーシックインカムなどの制度で最低限の生活保障を行ない、少なくとも“絶対的な”弱者は解消してしまう。そうすれば、「自分は弱者だ」だの「余裕がないから人を助けられないのだ」だのと言った言い訳はできなくなり、“ノブレス・オブリージュ”を果たさないのはただ自分の性根が腐っているだけのことだと露見する。それと対峙して逃げるか、立ち向かうかは人それぞれなのだろうけれど、その結果社会がどちらの方向に進むのかについては少なからず興味がある。
追記
乙武さんは今回ちょっと下手を打ってしまった感じだけど、基本的にいつもいいこと言ってる*3と思うし、それを実践しているように感じている。
ただ、このオチには少し笑った。
広島県廿日市市で2013年6月8日に乙武さんの講演「チャレンジ精神を忘れずに」が実施される。お知らせのビラには注意事項として「車いすでご来場される方は、5月29日(水)までにご連絡ください」と書かれていた。
たぶん、スタッフが自分たちの都合で書いたのだろうけれど。
僕らは所詮、生まれたときから完璧な生き物なんかじゃなくて、個別に少しずつ進化論的な発展段階を踏んでいく生き物なのだから、少しずつ“努力目標”に近づければいいんじゃないかって思うわ。