「本来について考える」について考える
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法学とは、経験ではなく定義に、事実にではなく厳密な論理的証明に依拠する学問に、すなわち現実の諸問題よりもむしろ純粋な妥当性の諸問題をあつかう学問に属しているのである。
――ライプニッツ
「本来」とは何か
よく法律の議論で、本来は〜である、というようなことを言う。そこでいう本来は、望ましい状態を指すことが多い。ところが、そういうことを言うときは、現状は本来どおりになっていないことが多い。そこで、本来に戻れと主張するわけである。しかし、現状と違う本来とは何なのだろうか。
過去にあった状況
昔は~だった。ゆえに、それに返るべきである。
単なる懐古趣味と異ならない可能性もある。
当初の制度の趣旨
そもそもは~だった。ゆえに、それに返るべきである。
ある制度が時代の変遷にともない、当初の趣旨どおりでなければならない理由については論証が必要であろう。
現状と乖離した“本質”
問題の本質は~だ。ゆえに、それに返るべきである。
それは本質などないのだという立場にたってもいいし、本質は変わるのだと言ってもいい
契約論において
意思主義
stat pro ratione voluntas (意志は理性に優位する)
契約の拘束性は、「本来」当事者の意思を根拠とすべきだという議論で、契約の自由と密接に結び付いている。
→ 現実には、当事者に対等性がなく弱者側の意思に拘束性の根拠を見出すことが適切でないということが起こる。
契約正義論
意思主義などは、「本来」ではないのであり、現実に即した議論をするべきではないだろうか。本来 → 現実 ではなく、現実 → 本来 という議論のベクトルをもつ。
基本権保護義務論
国家が個人の人権を保護する義務を負う
権力の力をかりて「意志」の回復を試みる。
小山剛『基本権保護の法理』
自己決定論
使用者に対し従属的な地位にありながら, 絶えずみずからの主体的努力を通じて, こうした従属状態を克服しようと努力する労働
者
西谷敏 『規制が支える自己決定 労働法的規制システムの再構築』
関係的契約論
イデオロギーに基づくモデル化された契約ではなく現実に存在する契約をあるがままに捉え、社会背景の中に契約を把握する。
すべての契約は次の十の共通契約規範を有すると説明する。
関係的契約理論 - Wikipedia
- 役割の完全性
- 互酬性
- プランの履行
- 合意の実現
- 柔軟性
- 契約的連帯性
- 原状回復利益、信頼利益・履行利益(「連結規範」)
- 権力の創造と抑制(「権力規範」)
- 手段の妥当性
- 社会基盤との調和
単発的契約 → (継続性をもった)関係的契約。意思主義の本来性を否定し、よりリアリティのある契約論を展開。関係性に本来性を見出す立場。
内田貴『契約の時代―日本社会と契約法』
潜在的対等性論――意思主義であり、かつ権力を借りない立場
本来という名の下に権力の手を借りるのは、矛盾をはらんでいる。意思主義は、個人の自由が出発点であるからである。意思主義は、神の呪縛からの解放であり、抽象的な契約正義論からの離脱でもある。せっかく上からの抑圧から解放されたのに、また国家権力が乗り出して来るのは、どうであろうか。
その通りだ! と思う反面、法律そのものが“権力”ではないかとも感じるので、“権力を借りない”ということの意味が分からない。“現在の枠組みに追加される権力”を否定しているのだろうか。そもそも自分が“権力”の用語自体を理解していないのだろうか。
私の本来論は、可能性を重視する議論でもある。それは個々人を主体とし、それが制度を利用する可能性なのである。この可能性の議論を突き詰めていくと、センのcapability の議論にもつながっていく。労働者が制度や権力の提供した資源をどこまで活用できるかまでみた平等論が必要なのである
意志論(市民法)の出発点は、「対等な個人の自由な契約」という理念。労働法(社会法)の出発点は、「企業と労働者は対等ではない」という事実で、意志論の一部修正を迫るものだった。しかし、“現在の枠組み”をフル活用すれば、企業と労働者は対等でないとは言えない(そのためにはフル活用するための素地を整える必要もあるけれど)。……よくわかんない!(笑
関係的契約論はかなり興味をもった。でも、素人がいきなり読んで理解できるものかなぁ? まぁ、頑張るっきゃないよね。