二つの原理

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支配は財産を基礎とする。暴力や詐欺によって統治が変わることはありうるとしても、当地を基礎づけ、かつ永続化させるのはまさに財産である*1

ハリントンは、政治の原理として二つの要素ないし側面があると考えていた。

ひとつは内面的なもの、つまり精神の善(the good of the mind)。叡智、知恵、勇気などの生得的または後天的な徳(virtue)がこれに含まれ、この善には権威(authority)が対応する。

もうひとつは外的なもの、つまり財産の善(the good of fortune)。これはずばり富(riches)のことで、これには権力および支配権(power of empire)が対応する。

古代においては、権威も権力も血で“継承”するものだった。そもそも“古典的共和主義”のリングに上がることができたのは、それなりの財=権力をもったひとたちだった。彼らにとって、財=権力は当然備えている前提条件に過ぎない。

しかし権威はあくまでも後天的なものだ。そのため、古典的共和主義における主題のひとつは、いかに個人が(努力して)“権威”を獲得するかにあった。尊敬に値する、価値のある生き方とは何だろうか*2

一方、近代では才覚によって一代で“財=権力”を得ることが認められている*3。市民社会、近代経済では、“継承”に依らない権威なき権力が生まれうる。それはひとつの“自由”でもある。親の出自に関係なく才能を発揮できるのは素晴らしいことじゃない? そんな“権威=権力”関係が崩れて、権威なき権力も考慮に入れなければならなくなったのがハリントンの時代だ。

しかし、そこではどうしても“財=権力”がまず追求されてしまう。近代的“権力”において“権威”は必ずしも必須ではないと思われている。権威の獲得は二の次になる。

けれど、権威なき権力は他者を屈服させることはできても、他者に慕われることは決してない。やはり、“権力”は“権威”も備えているべきではないだろうか。近代社会において、統治者はどうあるべきなのだろうか。

というわけで、次は エドマンド・バーク - Wikipedia あたりに進まねばならない気がしてきた。

*1:この言葉はハリントンの盟友・ネヴィルによるもの

*2:ストア派哲学がその答えの一つだ

*3:古代では認められていなかった!