「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方そのものが危険だ
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<「これは善なのだから、他人に強制してもいい」という考え方そのものが危険だ>
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この一節には、自由主義・リバタリアニズムの考え方のエッセンスが含まれている。日本では、自由主義・リバタリアニズムはいまのところ、それほど支持されているとは言えない。しかし、この一節が多くの共感を集めているということは、自由主義・リバタリアニズムの潜在的な支持者はまだたくさんいる、ということを意味しているのではないだろうか。
若い頃は、このような考え方に共鳴していた。けれど、これ――共通善の否定――はリバタリアニズムの限界でもある。原理主義的なリバタリアニズムにおいては、社会的あるいは法的な“制裁”を正当化できそうにない。その根拠を突き詰めれば、最後には共同体で共有しうる“善”に行き当たるだろうから。自分が“共和主義”に興味を持ち始めたのは、その限界に気づいたからでもある。リバタリアニズムは素敵な考え方だけれど、それだけでは僕達が“社会”をなす意味も目的も方法も得られないんじゃないかな。リバタリアニズムがいまいち支持を得ないのは、そこに答えないからじゃないかと思わないでもない。
にしても、このバリエーションを考えると、いろいろ面白いかもしれない。
- リベラリスト「よい善は他人に強制してもいい」
- リバタリアン「他人に強制してもいい善など存在しない」
- 共和主義者「みんなで善を共有し、育てていこう」
- 保守主義者「私達は先達から受け継いだ善を守るべきだ」
混ぜることも可能だな。例えば共和主義を軸にすればこうなるかもしれない。
- 古典的(保守的)共和主義者「私達は先達から受け継いだ善を共有し、育むべきだ」(ローマ)
- リベラル的共和主義者「教育を通じて共通善を次世代にも共有してもらおう」(フランス)
- リバタリアニズム的共和主義者「他人に強制してもいい善など存在しないけれど、なるべく共有することは可能だ」