なぜお年寄りを大切にすべきか
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余裕があるなら、みんなお年よりは大事にしたい。日本人である以上、日本人の死に様には美があってほしいと願います。だが現実はこんな夢のような社会保障は続かない。冒頭にも書いたとおり、そんなことは誰でも分かっているんです。
いま問題になっているのは世代間格差という話ですらなく、激減する日本人が、いまの日本の豊かさ各方面すべてを維持できなくなるから、何を捨て、どれを次の時代の日本の「売り」にしていくのか、ということです。
うちの家はちょっと大きめの土木・建設屋なのだけど、最近、ほとんど会社を潰す形で、親父が引退した。これまで何億も借金を抱えながらそれを返しつつ、何十年にわたってたくさんのひとにお給料をだし、税金だって人並み以上に払ってきた。だけど、今は年金すらない。まぁ、あとは僕が面倒見ていくから問題はないのだけど、正直、経済的にはしんどくなるだろう。ましてや、これに嫁さんをもらって子ども3人ぐらい作って……だなんて、夢には描くけれど、本当はあまり想像もしたくない。
けれど、うちは幸い兄弟が4人いる。よそへ嫁に行った末の妹に経済的な負担をかける訳にはいかないが、それでも男3人もいれば経済的・精神的に支えあっていける。これが一人っ子だったらと思うと、ほんとゾッとする。
まぁ、ここまでは私事で恐縮なのだけど、実際今の日本で起こっていることはこれと大差ないんじゃないかな。少子化の原因はいくつがあるが、そのなかでもっとも大きいのが、お年寄りを少ない働き手で支えることで予想される将来的な経済不安だろう。
みんなにとって幸せな解決は、功利主義的に言えば、老人には潔く「腹を切ってもらう」ことで、本人にそれができなければ「姥捨て山に捨てる」しかない。うちの親父に年金がないのは保険料を払わなかった親父の自己責任だし、日本の社会保障制度がサステナブルなものじゃないのも日本国民の自己責任だ。
でも、それはあまりにも悲しい結論。そこで、もう一度原点に立ち戻って、「なぜお年寄りを大切にすべきか」を問題にしたい。それでもやっぱり、年寄りは大切にすべきなんだよ。
とはいえ、一から説明するのも面倒くさい。このブログを購読している人なら、「あー、またこのおっさん贈与の話だな」と予想がつくと思うし。というわけで、細かいところは端折って簡単に説明しよう。
若者と老人の直接的互恵関係
まず考えられるのは、若者と老人の間で直接互恵関係が成り立っている、ということだろう。
若者は余った体力と経済力を老人に与える。
一方、老人は若者に欠けた経験、思慮、分別を与える。
それでは、なぜ父母は子女より、そして祖父祖母は父母より敬われていたのか。
彼らこそ、「皆の知恵」だったからだ。
これで貸借はイーブンだ。とてもわかりやすい。しかし、もし老人が差し出す「経験」の価値が目減りしたり(技術革新の速さ…など)、若者が差し出す体力と経済力が希少になったり(少子化)すれば、この関係は破綻する。
継続的互恵関係から生まれる規範による恩恵
ただ、この需要と供給による説明は「わかりやす過ぎる」だろう。需要と供給の論理は、仮構に過ぎない。若者と老人との関係は、ただ体力・経済力と経験・知識を交換する間柄以上の何かで、多くの人にとって維持するのが好ましく思われる何かに違いない。それを少し明らかにするのに役立つのが、継続的互恵関係による規範的アプローチだ。
- 初期贈与:
- 互恵規範:
もし、社会に「老人を大切にすべき」という規範があれば、体力的・経済的に余力のある若いうちは老人を助け、年老いて体力的・経済的に劣れば次世代の人に支えてもらえる。つまり、若年時の体力・経済力をプールしておくことができる。
おそらく、最初に老人を助けた若者にとって、それは見返りを期待しない、単なる気まぐれだっただろう(初期贈与、純粋贈与)。しかし、そのコミュニティに「うけた恩は返すべき」というより基礎的な互恵規範が成立していれば、それは恩として永遠に贈与され、生き残る可能性がある*1。助けを受けた老人は、その返済を自分の子孫に託すだろう。教育を通じて、恩義の負債が次世代に継承される(『市民政府論』 - だるろぐ)*2。子孫にとっても、「老人を大切にすべき」という新しい規範を守ることにはメリットがある。それが維持される限り。規範が維持されるという期待が強固であればあるほど規範は強固になり、期待が弱くなればなるほど規範は脆弱になる。
老人が大事にされなくなるのは、老人自体に価値がなくなっていると言うよりはむしろ*3、老人が大事にされる基盤が蝕まれ(保障制度への懐疑)、道徳に対する尊敬が失われつつある(教育の欠如)ことに原因があるように思う。結構複合的な問題なので、これでOKという万能な解決策はない。