「特殊な事例を口実に」
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それが思想のバックグラウンドをもつ批判ならば、有益でありうる。けれど、そうでない場合の意見は、根拠の一貫性が検証できず、アドホックで、思想のフレームワーク自体の欠点を指摘した“反証”ではありえない。よって、有益であることは難しい。批判は、単なるその場限りの「叩き」に堕ちてしまう。
よく考えたら、“一貫した思想のバックグラウンド”をもつことがなぜ“有益”な批判を生むのかを指摘するのを忘れていたので、それが分からない人には謎な文章になっていた気がする。では、“一貫した思想のバックグラウンド”はなぜ大事なのか。
“特殊”と“一般”を分ける基準としての“仮説”
ちょうど、例として『赤旗』がいいことをいっていたので、少し引く。
特殊な事例を口実に
人気が出てきたタレントの親の扶養という非常に特殊なケースは、あくまで道義的な問題であり、制度の欠陥ではありません。問題をすりかえて改悪の口実にするのは邪道というほかありません。……いま生活保護制度で重要なことは、必要な人に手が届いていないことです。
自分の意見とはまったく違うけれど、これはこれで主張が一貫していてアリだと思う。しかも、いいこと言うじゃないか――「特殊な事例を口実に」。
『赤旗』の意見からすると、今回の件は「特殊な事例」とみなせるらしい。生活保護はまだまだ有用な制度であり、要は運用の問題であると。一方自分は、時代の変化によって古い制度との不整合が起こっており、これから似たような事件が多発するだろうと考えているので、この件が「特殊な事例」とは思えない。
双方は違う“仮説”のもと、同じ事実を見ている。なにが“特殊”で“一般”とみなせるか。それはどの“仮説”――一貫した思想のバックグラウンド――を採るかによる。
充分に“正しい”考え方は複数あるが、“選択”できるのは一つだけ。
“仮説”の正しさは、より多くの反証を含むか、で計ることができる。
たとえば、ニュートン力学は“正しい”。が、より多くのことを説明できる相対性理論は、ニュートン力学より“正しい”(忘れがちだけど、これらはどちらも“仮説”に過ぎない)。“正しさ”は演繹的に示すことも可能だけど、それは“すでに知っていること”の範囲と積み重ねに限られる。未知のことに立ち向かうとき、僕らの知ることのできる“正しさ”とは、とりあえず今のところ「辻褄が合っている」という意味での“正しさ”でしかない。
つまり、結局、なにごとも起こってみなければわからない。けれど、事前の“議論(分析)”によって、「辻褄が合っているか」という意味での“正しさ”を鋭くすることはできる。体系だっていて、テストに開かれており、十分に検証されれば、“正しい”。そして、“正しい”意見はいくつもありうる。――あとは“選択”の問題だ。選べるのは、ひとつだけ。
よりよい選択を行うためには、よりよい選択肢が必要だろう。よりよい選択肢とは、より正しい“仮説”のことだ。
僕たちは原発を使い続けるべきだろうか? あの事故は起こるべくして起きた一般問題なのか、たまたまが不幸が重なった、対策が可能な特殊事象だったのか。生活保護制度を悪用するのはごく一部の人なのだろうか、それとも今回の事件は氷山の一角に過ぎないのか。正しい見方はいくつでもあるけど、選べるのは一つ。そこに、危険が潜んでいる。
いつのまにか、へんなことになっている。
というのも、悪い奴は常に「特殊な事例を口実に」する。センセーショナルなことを起こしたり、センセーショナルな話題に便乗して、冷静ならば容易に気付く矛盾したこと、一貫した考えを持っていれば間違っていると検証可能なことを、簡単に成し遂げてしまう――たとえば、自由を求めた革命が独裁を生んだり。
センセーショナルな事件が起きたとき、その意味を判断するための一貫した“基準”――“仮説”――を常に自分の中でもっておくこと。一貫した“仮説”で常に隙間なく武装しておくことは、その危険を減らすために有効なのじゃないかな。