「俺はこう考えている」と一貫して表明できる者だけが、石を投げなさい。
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最近、憤って終わり、みたいな態度を Web でよく見るように思う。きっと、今に始まったことじゃないのだろうけど。
それが思想のバックグラウンドをもつ批判ならば、有益でありうる。けれど、そうでない場合の意見は、根拠の一貫性が検証できず、アドホックで、思想のフレームワーク自体の欠点を指摘した“反証”ではありえない。よって、有益であることは難しい。批判は、単なるその場限りの「叩き」に堕ちてしまう。
とくに“匿名”による批判は、そのような傾向を持つ。匿名という性質上、発言者の思想的バックグラウンドが見えにくいからだ。けれど、一部ユーザーによる良質な“まとめ”があれば、あながち無益であるとも限らない。良質な“まとめ”は、世論の中から思想のフレームワークを類型化し、わかりやすく示してさらによいフィードバックを集めることができる。
逆に言えば、“実名”“顕名”であれば有益性が担保されるとは限らない。煙に巻いた態度で巧妙に自分の思想を明らかにしなかったり、その場限りの理屈で揚げ足をとった批判を繰り返したりする場合、その批判はやはり、“反証”ではありえない。日本のマスメディアが“実名”でありながら良質たりえないのは、自分の立場を明確にし、それを維持しないがゆえだ。
とはいえ、自分なりの“思想のフレームワーク”をもつのはあまり簡単なことじゃない。たとえば、Twitterで自分の考えを垂れ流すのは個人的にはいいことだと思うけれど、それはあくまでもフローであって、それを顧みて“まとめ”てストックにしなければ、やはり社会に対して有益な批判にはなりえず、なにかの貢献をなしているとは言えない。そういうひとは「民衆(people)」であって、「市民(citizen)」ではない。
なぜブログを書くかのひとつは、市民であるから、というのがあるけど、そこは理解してもらうということでもないし。
— finalventさん (@finalvent) 10月 6, 2011
だから、自分も割とブログを書くことによって社会に貢献する「市民」であるつもりだったりする。だからと言って、ブログを書かない人間を「市民ではない」というつもりはないけれど。やり方は人それぞれで、自立・自律的であれば、それで市民でありうると僕は思う。