「共和国」とはなにか
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河村たかし名古屋市長は20日の記者会見で、愛知県西部の市町村と合併し400万人規模の大都市とする「尾張名古屋共和国」実現に向け、各首長の理解を得るため、28日夜に居酒屋で意見交換することを明らかにした。
構想は、二重行政を解消、迅速な政策決定により、国際的な競争に打ち勝つ都市を目指す。
単に自分が単に興味をもつようになったから、なのかもしれないが、最近、「共和国」というフレーズをよく聞くようになったと思う。この、一見ヘンテコなニュースもそのひとつ。
しかし、実際のところ、「共和国」ってなんなんだろう。「共和国」の定義は、考えてみると難しい。
まず一般的に、共和政体をとる国が、「共和国」とされている。けれど、世界を見ればそうでない「共和国」は多いし、そもそも「共和国」という言葉のもつ響きは、共和政体への愛着とは異なる、もっと肉々しい感情を含むような気がする。たとえば、郷土愛や愛国心、友情、家族愛に近いもの。
もうひとつ、このニュースについて思ったのは、この「共和国構想」を批判したり嘲笑うヒトの殆どは、名古屋や愛知とは縁のない「部外者」なんだろうな、ということ。
橋下知事(今は市長だが)の改革に対しての、在京メディアのスタンスにも、同様の違和感を感じる。心ある人ならば誰しも大阪や名古屋がいい方向に変わってほしい、と願っているはずなのに、その意見はとりあげず、一部の「抵抗勢力」*1が掲げる「タテマエ」に重点を起きすぎている。そんなこと百も承知だけど、それを考えてばかりいては前に進めない、「タテマエ」を振りかざして腐敗を正当化する輩が多すぎるという「ホンネ」。これを率直に言葉にしてくれるから、橋下氏は支持されているのだと思う。最近になって後者の側のヒドさが東京にも伝わるようになって、そのような言説もかなり勢いが削がれているようだが。
個人であれ、国であれ、自分の思い通りに生きたり、自分の信念に正直に生きたい、と願うのはあたり前のことだ。けれど、関わる世界が大きくなるにしたがって、それは難しくなる。関わる世界が広くなるほど可能性も広がるけれど、逆に自分の思い通りになる部分は少なくなって、無力感や疎外感を感じるようになる。
このふたつのことを思った時、もしかしたら「共和国」というのは、自分の可能性を広げるために参加しつつも、それに疎外されず愛着がもてるモノ、みんなでそれを守るために協力できるモノと考えたほうがいいのかもしれない、と思いついた。ならば、「共和国」に必須とされる共和制という政体すらも、自分の政治参加を実感するための手段に過ぎない。「共和国」にとってほんとうに大事なのは、外的環境の影響(外国からの侵略、在京メディアの雑音・無理解……etc)を極力排除し、"自分らしくある"ことなのではないかな。
変な話、それだったら中国が不完全な共和制を採りながらも「中華人民共和国」を名乗りうる理由がハッキリする。彼らにとって、中国は「共和国」であるはずだ。
もしかしたら、河村氏が「共和国」という言葉を持ちだしたのも、そんなことを漠然と感じていたからかもしれない。もちろん、単なる思いつきなのかもしれないけれど。