ヌマと宗教
執筆日時:
ヌマについては、リュクルゴスほど感銘を受けたり、驚かされたりすることはなかった。
ヌマは土着の宗教をうまく活用して、共和国に倫理という背骨を植えつけた。それ以外について、たとえば法律に関しては、とくにない。ただ、父親は息子を奴隷と売っても良いという法律を改正したことなどを見ると、理性的な人だったのだと感じる。宗教に関しても、その効能には注目していたが、実際に信じていたかと言われれば怪しいところだろう。
個人的にヌマの事績で注目したいのは、以下の2点だ。
職業組合
少し長いが引用することにしよう。
ヌマが行ったいろいろな政策の中で、民衆を職業によって区分したことは最も驚嘆されている。
すでに述べたように、ローマの国は二つの種族から合成されたものと思われていて、とかく分裂しがちで、いかにしてもひとつになろうとせず、その相違と不和は拭いきれず、両者の衝突と競争はやまなかった。
そんな状況を見て、ヌマは考えた。
物体の中で混じりにくく硬いものは、打ち砕いてバラバラにすれば、形が小さくなるので、互いにうまく合うようになる。そこで彼は、民衆全体をたくさんの小部分に分かち、さらに次々に、別の小部分に分けて、あのはじめの大きな不和対立を胡散霧消させた。
その組み分けとは、職業によるものだった。
曰く、笛吹き組、金細工師組、大工組、染物師組、靴屋組、革なめし屋組、銅細工師組、陶工組。これ以外の職業はまとめて一組にした。(そして)それぞれの組みにふさわしい会合や集会、神を礼拝する祭式を定めた。
こうしてはじめて、ローマの国から、やれサビーニ族だ、やれローマ族だ、タティウスの民だ、ロムルスの民だ、と言われたりみなされたりする習慣を廃して、上のような組み分けによって、全てのものと調和し融合するようにした。
同じ事を、スパルタのリュクルゴスは家族を粉砕することで達成した。男と女を分けて住まわせ、優秀な者どうしを娶せ、子どもは取り上げて国が直接教育した。
ヌマはそこまで"非人道的"なことをせずに、同様の結果を出した。また、ここでも神様をうまく利用した。職業組合ごとに神様を割り当てたのだ。同じ神様に祈りを捧げることで、人々は絆を強くしたであろうし、その職業に誇りをもてるようにもなっただろう。また、神への贈与は"公共贈与"としても作用したと推察できる。まぁ、それはまた別の話。
ともあれ、これにより民族の融和を図ったばかりか、これから参加する民族に対しても、門戸を開いたことになった。神に捧げ物をもってその組合に参加する意志を示しさえすれば、ローマ人もサビーニ人も、ギリシア人もエトルリア人も関係ないのだから。
信義と境界
もう一つは、契約の重要性、所有権の重要性を確立したことだ。ヌマはこれすらも神様にしたのだから、ちょっと笑ってしまう。
彼ははじめてフィデス(信義)とテルミヌス(境界)の神殿を建てたと言われる。
最も重要な誓いはフィデスに誓うべきことをローマ人に教え、その習慣は今でも守られている。
テルミヌスといえば境界(Terminal)であろうが、この神に犠牲を供えるときは、公にも個人でも、畑の、境界線で区画された所で行う。今では生きた獣を供えるが、昔は流血の穢れのないものを供えた。テルミヌスの神は、平和の守護者にして正義の証人におわすゆえ、殺すことなく、清浄でなければならぬと、ヌマが理を述べたのである。そしてまた、実際に国土に境界を設けたのはこの王であったと思われる。
……境界というものは、守られていれば、権力を縛る縄だが、守らなければ不正の証となる、と彼は考えていた。……ヌマはそれ(ロムルスが槍の力で得た土地)を全部貧しい市民に分配して、不正の原因とならざるを得ぬ貧困を取り除き、民衆を農業に向かわせ、土地ばかりでなく同時に民衆をも、開拓しようとした。世の生業も数々あるが、土地による生活(農業)ほど、平和に対する愛情を、強く、速く、抱かせるものはない。……それゆえヌマは、農業を平和愛好のための薬として、市民たちに調合し、富を生み出す技術としてよりは、人の性格を作る技術として、農業を重んじた。
彼の農本主義については、とりあえず置くこととしよう(筆者であるプルタルコス自身が農本主義に共感を感じているようにも感じる)。
契約の自由と所有権の確立は、商業が成り立つ上で必須といえる。贅沢品の余裕を禁止し、鉄貨を導入したリュクルゴスとは正反対の政策といえる。ローマは決して交通の要衝ではないし、なにか大きな産業があるわけでもなかったが、早くから商業(と農業)の基盤が発達したため、最後には世界を支配する都市に成長した。
ヌマはリュクルゴスと違い、開かれた社会を創り上げた。ただし、開かれただけではバラバラになってしまう。ヌマはそれを防ぐために、扇の要として「宗教」をうまく活用したと言えると思う。その意味では、現代における「共和国」は少し難しい。もはや宗教や既存の権威に力はなく、ただ市民の自覚のみが"扇の要"たりえるのだから。