四つの自由
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1. 自然的自由 ―― サルの自由
「自然的自由」とは、まったくの「私」の自由であって、いわば「サルの自由」を言う。何の制限もないので何をしてもよい。傷つけてもいいし、奪ってもいい。
2. 社会的自由 ―― 都市は人を自由にする(Stadtluft macht frei)
しかし、社会を形成する上で「サルの自由」は制限されるべきだろう。社会を形成することは、「サルの自由」を失ったことを補って余りある自由をヒトにもたらす。これを「社会的自由」と呼んでみる。実際のところ、サルですら自らの自然的自由を一部制限して、助け合いや互恵に基づく社会的自由を享受している。
社会的自由とは、互恵の輪に参加する権利と表裏一体だ。その権利は「公」への貢献の対価として与えられる。たとえば、財産や軍役をもって「公」に貢献する権利を持つモノのみが「市民」として互恵の輪(≒都市<ポリス>)に参加することを許された(⇔村八分)。
また、助け合いや互恵はヒトに上下関係を作る。みなが同じ能力と財をもっているならば等価交換が可能だが、実際はそうではない。互恵の輪に入るためには少なすぎる能力・財をもっている場合、代わりに「服従」を差し出すということが歴史的に見て一般的に行われてきた。より多くの恩を売れるヒトは、社会でより高い位置を占めることができる。
ただし、ヒトから自然的自由が完全に消えてしまったわけではない。ヒトはいつでも一匹のサルに戻りうる。社会的自由はそれを制限する。自然的自由と社会的自由の対立は、互恵の輪の生成・守成しようとするチカラ<洗練>とそれを破壊しようとするチカラ<野蛮>の対立として現れる。原始的な社会的自由が成熟すると、洗練はそれぞれの文化特有の慣習・道徳・法律・制度を作り出し、最後には封建制のような高度な社会組織を成すに至る。
3. 経済的自由 ―― 働けば自由になる(Arbeit macht frei)
経済的自由と社会的自由の一番の違いは、互恵における負債が、封建的服従として支払われるではなく、帳簿上の負債として記述されることだ。恩讐が貨幣で代替されると、貨幣をもってさえいれば、働くという社会行為を貨幣に替えることで<互恵の輪>に参加できるようになる。既存の慣習・道徳・制度を身につけ理解することは重要ではなくなる(⇛洗練と野蛮)。ただし、法律は交換の基本ルールを定めるために大いに活用された(≒市民法)けれども。
経済的自由は、ピラミッド型の互恵組織<小さな社会>を破壊して、<大きな社会>を生み出した。これがグローバリズムと呼ばれるもので、確かにヒトビトをより自由にした。が、それも貸借関係の不均衡を解消することはない。
ここで大きく二つの問題がたちあらわれてくる。
一つは、食べていくのには少なすぎる貨幣しか稼げないヒトたちが死んでしまうという問題。もう一つは、食べるだけには多すぎる貨幣を稼ぐヒトがより多くの社会的自由を金銭で得ようとするため、自由放任では貨幣の多寡が経済的のみならず社会的地位の上下に直結してしまうという問題だ。
4. 政治的自由 ―― すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない
経済的自由の基礎が貨幣になるとすれば、政治的自由の基礎は法律にある。
法律は、封建的な権威の裏付けをもって始まったが、次第にリクツの正しさによって自分自身で自分自身を権威付けるようになった。その点、流通しているから交換手段としての価値をもつという貨幣の事情の事情と似ている。法律が主張する自由はぶっちゃけ虚構<虚構>だ――ヒトはみな基本的人権をもっているのに殺されるのはナゼ?――けれども、その上に構築されたリクツは正しいし、普遍的だと思われている。ただし、サルの自由はないことになっている。
政治的自由がもつ最大の目的は、社会的・経済的自由がもつリクツに合わないこと<矛盾>を指摘し、是正することにある。たとえば、封建的上下関係を悪用して労働者をタダ働きさせてはならない、オカネで政治家を買収して好きな事をしてはいけない、離婚するのは自由だけど子どもを捨てる自由はない、などといったことだ。
政治的自由がもつ最大の弱点は、屁理屈を許すことにある。ヤクザにも生きる権利がある(確かにある)、殺人者にも生きる権利があるから死刑はよくない(そう言われてみればそうかもしれない)、国際免許をうまく使えば運転免許停止を実質的に免れることができる(すごい!)、民主党のマニフェストは契約じゃないので民意に問わず破棄してもいい(おうのう!)。
屁理屈が考慮しないのは、その理屈を成り立たせる前提条件だ。ヤクザは反社会的勢力だ。殺されたヒトは裁判に出られない。運転免許はなんのためにあるのか。党是のない政党は単なる選挙互助会である。こういうのがあまりにも続けば、「サルの自由」が許さないだろう。
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古典的共和主義者(保守主義者?)が重視するのは、もちろん社会的自由だ。自分の自由は公的・私的な人間関係・慣習・道徳に支えられているので、知人を大切にし、公に貢献することを重視する。野蛮を敵視し、洗練をよしとする。
"新しい共和主義"者は、4つの自由があることを知っている。あくまでも基礎に立つのは社会的自由だけれど、経済的・政治的自由も含めた自由全体がより大きくなることを望み、発展させようとする。経済的自由には節制を、政治的自由には抑制を、そして自由の敵にはサルの自由を。