『真の個人主義と偽の個人主義』
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ハイエク『市場・知識・自由』より。ハイエクによると、_「個人主義」_には2通りあるという(いや、3通り?)。
真の個人主義
イングランド・スコットランドの思想に端を発する_経験主義的_個人主義 *1。社会の存在と、限られた合理性をもつ個人を前提とし。個人の過誤は社会的過程のうちにおいてのみ訂正される。
- ジョン・ロック
- バーナード・マンデヴィル
- ヒューム
- ジョサイア・タッカー
- アダム・ファーガスン
- アダム・スミス
- エドマンド・バーク *2
- アレクシス・ド・トクヴィル
- アントン卿
偽の個人主義
フランスおよびそのほかのヨーロッパ大陸の著者によって代表される_合理主義的_個人主義。「真の個人主義」が社会の存在を前提とするのに対し、「偽の個人主義」は孤立した個人、あるいは自給自足的個人の存在を前提とする *3 。
- デカルト
- ルソー
- フィジオクラート(重農主義者)たち
ジョン・ステュアート・ミルやハーバート・スペンサー以降の経済学者は、この「偽の個人主義」の影響を大きく受けてしまった。
またもう一つの「偽の個人主義」が帰結するものとしては、_無政府主義_が挙げられる。これも、社会を前提としない点において「真の個人主義」ではない。
両者の対立
合理主義的個人主義は、理性が常に完全かつ平等にすべての人間に通用すると考え、人間が達成する一切は個人の理性の支配の直接の結果であると考える。そういった思想は、_一般意思_や_社会契約説_、ひいては設計主義・社会主義・集団主義の発想に陥りやすい。
「スパルタの過去の栄光は、この国の個々の法律が優れていたことによるのではなく、……それらの法律がただ一人の人間によって制定され、すべて単一の目的に向けられていたからである」
(デカルト)「(ルソーの理論は国家を休息に解体して)バラバラの個人の粉末にしてしまう」
(バーク)「一方では計画的に組織された国家、他方では個人だけが実在とみなされ、その中間にあるいろいろな形成物と結合体は抑圧されるべきである――フランス革命の目的がそうであったように」
(ハイエク、P.28)
自由を「可能性」と言い換えるならば、孤立した個人の「可能性」は限定的だ。しかし、社会における個人の「可能性」は、社会の文化・インフラ・成熟度、家族、友人、コミュニティ、人脈などに応じて大きく広がる。それを無視してしまう個人主義が、「真の自由主義」といえるだろうか。
また、合理主義的個人主義は「 *4 司令による統治」をよしとするのに対し、真の個人主義は「 *5 規則による統治」をよしとする。理性を有するという誰かの命令に従って生きるのと、多少窮屈な慣習・法律・人間関係があっても、それと折り合いをつけながら自分の意志で生きるのとでは、どちらが「真の自由主義」といえるだろうか。