『純粋理性批判』 の復習
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『純粋理性批判』を頑張って読んでたのだけど、途中で全然わからなくなった。しょうがないので、また1巻から読もうと思うのだけど、その前にこれまの理解をまとめておこうかなと思う。
大陸合理論 vs イギリス経験論 / 実在論 vs 唯名論
カントまでの哲学には、大きく分けて_大陸合理論_と_イギリス経験論_の二つがあった。
大陸合理論は、理性に重きを置く。ヒトにはみな理性をもち、ゆえに論理的に思考する能力が備わっている。誰が計算しても、 1+1=2 であることには代わりがない。
ただし、「認識」の問題に立つと、大陸合理論は行き詰ってしまう。あるもの X を X であると認識するには、あらかじめ X が何であるかを知っている必要がある。では、僕たちはいつ X を知ったのか? はじめから、すべてを *1 。これは明らかにおかしい。合理主義者は、ここで躓いてしまい、あとは神様に任せるしかなくなる。
一方、イギリス経験論は、経験に重きを置く。ヒトは生まれたときはまったくの白紙状態<タブラ・ラサ>で、成長に応じてさまざまなモノについて「 X が何であるか」を習得し、あるもの X が X であると認識できるようになる。
これは一見ナイスな考え方だ。しかし、A さんが認識する X と B さんが認識する X が同値であるかどうか、と問われるとたちまち危機に陥ってしまう。僕が「青」と感じている色が、他のヒトには「緑」と感じられる、なんてことことがないとは言えない。大陸合理論ならば、みんなに等しく備わる理性がすべてを解決してくれるのだけど。経験主義者は、何も確信できなくなり、懐疑主義に陥る。
すべては経験から始まる、しかし、アプリオリなものもヒトはもっている
とりあえず、こいつらになんとか折り合いをつけなければならない、とカントは考えた。
カントは言う。「すべては経験から始まる」これは確かだと。けれど、それだけではない。ヒトはある制限された形式でしか、経験(感覚)できない。それは、_空間_と_時間_だ。
空間は、あきらかに1つしかなく、みんなで共有している。あるモノが有る場所に、他のモノが有るのは不可能だ。だから、空間に関わる経験は、疑わなくてもいい。
時間はちょっと難しい。カントにとって時間は主観的で、自分の中にあるものだ。正確に言うと、空間のように「有る」わけではない。ただ、知覚が連続していること(≒「継起」)、そして連続した知覚に微妙な差異があることが時間として感じられる。
例えるなら、パラパラ漫画のようなものかな。紙(空間)をパラパラとめくる(時間)ことで、紙に書かれた絵が動いているように見える。直感の役割は、ここまで。僕たちは実物そのものを理性に引き渡しているのではなく、空間(と時間)という形式によって把握したぺらっぺらな絵を理性に引き渡す。「木がある」「1本ある」などと分析・把握するのは、理性の役割。これについては、光文社版の『純粋理性批判』の第2巻の内容になる。
*1:デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という基本から、すべてを演繹できると考えた