「教育基本条例について」を読んで――市民と公民

執筆日時:

Our Lady of Vilna School, 3rd & 4th Grades, 1957

残念ながら、今の日本の教育がここまで劣化したのは、維新の会のかたがたが考えているように、「民の力」が教育行政に及んでいないからではない。
及びすぎたせいである。
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教育基本条例について (内田樹の研究室)

教育基本条例について (内田樹の研究室)

ほんとにそうだろうか。

うちの家庭は教育に熱心な部類で、中学・高校は私立学校だった。それも、入試説明会での先生の熱意を買ったとかなんとかで、古くて伝統・権威のある学校ではなく、創設間もない当時は無名の進学校に入れられた *1 。だから、普通の公立学校のことはよくわからない。けれど、開かれた学校であることに越したことはないんじゃないかと思う。少なくとも、うちの学校は保護者の意見もよく聞いたし、生徒と先生の距離も近かった。

とは言え、学校が「公民(Citizen)」を育てる場であるという見方には賛同するし、開かれていれば良いものでもないとも思う。何が「善」であるかについてすべての人が一致することは不可能だけど、「公民」のあり方はある種の「善」(理想)に基づいていなければならない。なので、ボーダレスな「正」(論理的な正義)とは逆に、「善」は適切に閉じている必要がある。 *2

しかし、それをごく一部の人に独占させるのはあまりよくないと思う。地域に根付かない「正」や「善」 *3 を押し付けられても、生徒は家庭での「善」と学校で教えられた「正」の間で苦しむだけではないだろうか。そうなれば、生徒が学校を尊敬したり、誇りに感じたり、頼りに思うこともないと思う。

「公民」というのは「公共の福利を自己利益よりも優先的に配慮する人間」のことである。
これは形成することのきわめて困難な社会的存在である。
マルクスはかつて「公民」(citoyen)を「類的存在」と呼んだ。
孔子は「仁者」と呼んだ。
求めて得がたいものであるが、そのようなふるまいをする人物が一定数供給されないと、社会集団は維持しがたい。
そのために学校はある。

公民が「類的存在」だの「仁者」だのと呼べるのかについては勉強不足でよくわからなかったが、(日本語へ訳された単語としての)「公民」とは、「People as Public」(「公」としてのひと)のとこで、「私民(People as Private)」とは異なるのは確かだ。そして、学校はガキを「公民」にするための教育機関だ。

では、「公」とは何か。

古代において、それは「政治に参加すること」だった。意見を表明して、議論を交わし、市民としての生を全うすることだった。だから、公民=市民であった。

しかし、近代において資本主義が起こると、それは「市場経済において一定の役割を果すこと(≒働くこと)」という意味が加わり、そして「公」に対するその比重が大きくなってきた。「市民」としての生は拡大し、「公民」とは少し乖離してしまった。市民=政治への参加+経済への参加になったのに対し、公民=政治への参加(またはその資格を持つ者)程度の意味しか持たなくなった。そして、「公民」の領域はますます狭くなり、省みられることがなくなった。

つまり、政治に参加しなくても、働いてさえいれば「公的な義務を果たしている」と胸を張って主張できるのが現代なのだ *4 。古代的な意味で言えば、それは単なる_政治的ひきこもり_なのだけど。

なので、学校が開かれて保護者がそれに参加できるのならば、そういう意味では状況が改善されているのではないかと思う。ただし、そこが「Public」な場であるとの認識が行き渡っていればの話になるけれど。モンスターピアレントのような、「Public」な場に私的な利害を持ち込もうとする輩には、しっかりとそれ相応の処罰を与えなければならないと思う。

*1:今では全国有数の進学校になっているらしい

*2:ある地域では「善」だが、違う地域ではそうではない、というのは認められるべきだ。

*3:地域に根付かない「善」は、「独善」とでも呼ぶべきだ

*4:子育てに参加しないことを詰られて、「給料を稼いでくるのは誰だ!」と叫ぶ父親などその典型のような気がする