ロンドンの暴動、および二つの扉。
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8月6日にロンドン北部のトッテナムで発生した暴動は、数日のうちにロンドン市内各地に飛び火し、さらにはマンチェスター、バーミンガムなど他の都市へと拡大した。この暴動に対する多く英国民の最初の反応は恥辱感だった。
トッテナムで始まった暴動が、日本でも報道されるようになって1週間弱。最初は政治的メッセージを含んだものだったのかもしれないが、規模を増すにつれてそれはかき消され、今では目を覆うばかりの醜い欲望の発散に堕してしまっている。社会を維持する「信頼」の輪のいかに脆弱なことか。
しかしなぜ、欧州では若者を中心とした暴動が頻発するのだろうか *1 。一般的に指摘されるものとしては、以下の理由があげられることが多い。
- 政府の公共支出削減、それへの不満
- 経済構造の変化やその結果として生じている単純労働の仕事の不足
- 長い時間を掛けて進行してきた家族形態や規律の崩壊
- ソーシャルネットワークを通じた不満の増幅と組織化
個人的には、格差の固定と、その不満を解消できる方法が少ないということも挙げられると思う。先年暴動があったフランスは日本も真っ青になるほどの学歴社会だし、今回の暴動の舞台であるイギリスにも階級社会が色濃く残っているという。それに比べれば日本は、(実は)まだまだ人生を逆転できるチャンスが多い(――が、それもだんだん崩れつつあるように思われる)。将来の先行きが暗く、しかもそこから脱出する術もないとなれば、刹那的になってしまうのも少しは理解できる。
また、移民を多く受け入れていることも挙げられるかもしれない。日本でも移民受け入れに積極的な人たちがいる。彼らが主張するには、労働力人口が将来的に不足するという現実的な理由がひとつ、もうひとつは社会とはなるべく開かれているべきだという理念上の理由がひとつだ。しかし、どちらもひとつの現実を見過ごしている。_社会を開くのに必要な「寛容」のコストは逆進的である_、という事実だ。「負け組」になればなるほど、金銭的な余裕はないし、心も狭くなる。移民がいなければ受け取ったであろう利益を"不当に失った"と感じ、社会を支えているという自負と誇りを傷つけられてしまう。
国や自分の将来に対して、ほとんど関心を持たない若者の集団が、現在の英国に存在しているのは明らかだ。
なんとなく、「愛の反対は無関心」という言葉を思い出してしまう。
移民に反対すれば、閉鎖的だと言われる。外への扉を閉ざしていると。けれど、格差という内なる扉を閉ざしておいて、外なる扉を開くのは、二つの扉に挟まれた人たちを寒風に晒すだけのことではないだろうか。外への扉を開く前に、まず内なる扉を開く努力が必要だ。正直なところ、すべての人間がくぐれるほど、内なる扉の中は広くないのだけど。
*1:日本では[西成暴動 - Wikipedia](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%88%90%E6%9A%B4%E5%8B%95)ぐらいしか記憶になく、それが若者中心であるというイメージもない