言論の自由について

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私は貴方の意見には反対だ。 しかし、貴方がそれを言う権利を、私は命にかけて守ろう。

――フランソワ・マリ・アルエ・ヴォルテール

この啓蒙主義者の素晴らしい言葉にもかかわらず、フランス革命ではたかが言論のために多くの命が断頭台へ送られた。日本でも、戦前は(もしかしたら戦後も?)言論によって命を奪われることが多々あった。

そういうことはあってはならないから、「言論の自由」は守られるべきだ。

けれど、最近の「言論の自由」は、そういった切実な意味からは乖離しているように思われる。たとえば、Twitterで言いたい放題言った挙句の言い訳に用いられたり、子ども達の目に触れる場所で堂々とエロ本を売るための大義名分として利用されている。

言論の自由」は、ヒトの自由であって、サルの自由ではない。

ジャングルで一人で暮らすサルならば、好きなだけ好きな事を喚き叫べばいいけれど、社会で暮らすヒトにはそうすることは許されない(サルでさえ、普通は群れで暮らすので、いろんなことを自制して生きている)。そういった分別をもつのがヒトなのだ。そして、そんな分別をもつヒトが、なおかつ言わねばならないと決断して言論をなす場合、彼を傷つけてはならない。それが「言論の自由」というものだと、僕は思う。だから、行き過ぎた「言論の自由」を行使する分別のないサルは、サルとして殴られても仕方がない。ヴォルテールも、サルを相手に同じことは言わなかっただろう。

とはいえ、相手がたとえサルであっても、私はヒトだ。貴方がそれを言う権利を、私は命にかけて守ろう。

ヒトはいつでもサルに戻れるけれど、戻るつもりならば荷物をまとめて森に還るべきなんだ。