文化とカネ

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 知事時代、「文化は行政が育てるものではない」と公言してきた橋下徹・前大阪府知事が19日に大阪市長に就任するのを前に、市内の音楽や芸能関連の団体が戦々恐々としている。

 橋下知事当時、府が出していた補助金を全額カットされた大阪フィルハーモニー交響楽団(大フィル)や、「観賞したが、2度は見ない」と酷評された文楽団体などは、市から多額の補助金を受けているためだ。

 「補助金がなくなると、本当に大変なんです」

 大フィルの佐々木楠雄・常務理事は11月30日、市の担当者に電話で、楽団の厳しい台所事情を訴えた。

橋下流に文化団体、戦々恐々…交響楽団消える? : 政治 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)

こういう記事を読むとすぐに「弱者切捨てだ!」と叫ぶヒトがいる*1けど、ちょっとまってほしい。

音楽や演劇、彫刻、絵画、などといった文化というモノは、財的・心的に余裕のあるヒトがやればよろしい。

たとえば、かつて共和政ローマ時代には、裕福な市民(貴族や騎士階級)がそれぞれ自分のお金を費やして文化事業を育成していた*2。ギリシャでも、そういうものは富裕市民が自分の楽しみ*3のためにやるものだった。そうでなければ、公共のモノとして神に捧げられるのが常だった。オリエントには市民がいなかったので、王が自分の贅沢のついでに文化的な事業を行った。もう少し時代が下ると、封建領主や富裕商人がパトロンとなる事例が多く見つかる。少し面白いのはヴェネツィアで、ここには王がいなかった。なので、いわゆる「ヴェネツィア派の画家」はトルコやフランスで活躍する場合が多かったし、共和国政府から依頼を受ける場合があったにせよ、それは多分にほかの封建領主との外交上の必要*4から生じたものであった。あとは、実用的過ぎて芸術的価値をもつに至ったモノが少々ある程度だ。

今の日本では、文化支援というモノは自治体の領分であると考えられている。しかしこれは、前時代の残滓というべきものだろう。自治体は封建領主ではないのだから*5、別に自治体が税金で文化支援を行う必要も義務はない。民主主義的な裏付けがあるのなら多少事情は異なるが、ゴミ収集や初等教育は誰しも自治体にやってもらわなければ困るけれど、音楽コンテストを開いたり、オーケストラに援助したり、誰もこない博物館を立ててみたりすることの是非について、有権者の意見が一致するだろうか。

じゃぁ、そういうモノが廃れてもいいの? それも困る。ただ、僕が言いたいのは、支援のやり方がおかしいということだ。

職業に貴賎がないように、文化的なモノにも貴賎がない。クラシック・オーケストラが支援されて、書道のパフォーマンスやアニメ制作が支援されない理由って何? 支援をするなら、あらゆるモノに対して平等にするべきだろう。これを突き詰めていけば、ベーシックインカムに行き着く。オーケストラにお金を出すのではなくて、楽団員のポケットに、アマチュア書道家の袖に、アニメーターの財布に、等しく報酬を入れてあげればよい。明日のご飯の心配をせずに、文化的な活動に専念できるだろう。

自治体が、支援する文化を選ぶのは愚劣だし、差別だ。自治体に支援すべき文化を選別する能力があるのか? 支援すべき文化活動と、支援すべきでない文化活動はいかに区別されるべきか? 能力がないのにあえて行うのを愚劣といい、理由もなしに選別することを差別という。

文化は生きているから、廃れもすれば、新しく生まれるモノもある。こういう対象を支援したいと望むのであれば、論理的・分析的手法ではなく、進化論的手法を用いるべきだ。つまり、前もって予測・評価できないのだから、特定のモノを選別して支援を与えるのではなく、すべてのモノに平等な支援を与えてあとは好きにやらせるのがよい。

ただし、この方法は古いものや評価の定まった文化しか認めない権威主義的なヒト達にはあまりウケがよくなさそうなのが玉にキズなのだけど。