其除肉刑

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漢文帝十三年の五月、斉国太倉令・淳于意が罪を犯したたため、詔により拘束され、身柄を首都・長安に移されることになった。肉刑ともなれば、黥(いれずみ)、劓(はなそぎ)、刖(あしきり)のいずれかだ。

「くそ、子どもはこんなにいるのに、肝心の男の子がいない。この危急の折に、娘ばかりでは何の役にも立たんわい」

この太倉公には男子がおらず、娘が五人いるのみである。男児がいれば減刑の嘆願も頼れようし、もし刑が下されても家門の再興を託すことができる。しかし、娘ばかりではどうしようもない。刑吏に捕縛されても、太倉公・淳于意は娘たちに毒づくしかなかった。

しかし、その言葉は娘・緹栄(ていえい)を甚く傷つけた。少女は泣きながら、長安まで父に付き従う。斉国・臨淄から長安までの道程は四月。斉を出たこともない緹栄にとっては、生まれて初めての長旅だった。

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(今やったら10時間半で着くらしいけどな( *´艸`))

道中、緹栄はたどたどしい筆で皇帝への文をしたためた。

「妾(わたし)の父は官吏で、斉では皆、その清廉と公平を称えています。
なのに今、法に坐し、刑を受けようとしています。
わたしは悲しい。
死んだ人は生まれ変わらず、黥を受けた者は再び元のようには生活を享受することはできません。
もし過ちを改め、一からやり直したいと望んでも、もうそのすべはないのです。
一生のお願いです、わたしが奴隷になりますから、それで父の刑を贖い、更生の機会をお与え下さい」

この書は皇帝にまで届いた。文帝は少女の心を憐れみ、以下のように詔を下した。

「聞くところによると、古の聖帝・有虞氏の時代、罪を得ても肉刑を与えることはなかった。代わりに、衣服へそれとわかる異章を加え、辱めたのだ。これだけで、民は過ちを犯すことがなかったという。なぜ今の政治はこれに倣わないのだろうか?

現在、法には黥・劓・刖の肉刑が定められているが、それでも悪事が止むことはない。その咎はどこにあるのだろう? 朕(わたし)の徳が薄く、その指導が明らかではないのではないか? 吾(わたし)は甚だこれを愧じる。民を馴らす道が不純なるが故に、無辜の民を罪に陥れたのだ。

詩経に言う『愷悌(がいてい:和らぎ楽しむこと)の君子は、民の父母なり』と。

罪を犯した人がいて、更生の手立てを尽くさずして肉刑を加えなければならないのはなぜか? 行いを改め善を成す可能性だってなくはないのに。

私はこれをとても憐れむ。刑が体を断ち、その肌に黥を刻み、その命を絶つ。その辛苦辛痛を不徳とせずして、どうして民の父母としての意にかなおうか!

以後、肉刑は法より除く。」

五月,齊太倉令淳于公有罪當刑,詔獄逮徙系長安。太倉公無男,有女五人。太倉公將行會逮,罵其女曰:「生子不生男,有緩急非有益也!」其少女緹縈自傷泣,乃隨其父至長安,上書曰:「妾父為吏,齊中皆稱其廉平,今坐法當刑。妾傷夫死者不可復生,刑者不可復屬,雖復欲改過自新,其道無由也。妾願沒入為官婢,贖父刑罪,使得自新。」書奏天子,天子憐悲其意,乃下詔曰:「蓋聞有虞氏之時,畫衣冠異章服以為僇,而民不犯。何則?至治也。今法有肉刑三,而姦不止,其咎安在?非乃朕德薄而教不明歟?吾甚自愧。故夫馴道不純而愚民陷焉。《詩》曰『愷悌君子,民之父母』。今人有過,教未施而刑加焉?或欲改行為善而道毋由也。朕甚憐之。夫刑至斷支體,刻肌膚,終身不息,何其楚痛而不德也,豈稱為民父母之意哉!其除肉刑。」

中國哲學書電子化計劃字典

追記

淳于意は漢代の名医。

若い頃から医術を好んでいたが、呂后8年(紀元前180年)に同じ郡の陽慶という人物から黄帝、扁鵲の脈書を伝えられ、人の生死を知り、薬についても詳しくなった。3年後には、人の病を治し、死から救い出すことが多かった。しかし斉王ら諸侯の間を巡り、時には病を治さなかったりしたので、恨む者も多かった。

文帝前13年(紀元前167年)、淳于意は罪があって長安の詔獄に下されることとなった。彼には娘が5人おり息子がおらず、逮捕され長安へ連行される際に「子を生んでも男がいないといざというときに役に立たん」と娘を罵った。娘の一人緹縈は父に随行して長安へ行き、「刑を執行されてしまっては取り返しがつかないので、自分が奴婢となって父の罪を購いたい」と上書した。文帝は感動し、肉刑(肉体を損なう刑)を廃止して他の刑に代えるよう詔を下し、肉刑の法は廃止された。

その後、役所勤めを辞めた淳于意を皇帝が召し出し、これまでの治療の事を話すよう命令した。淳于意は斉王をはじめとする多くの患者の治療について答えた。

淳于意 - Wikipedia

性格はビミョーな気がする。