『神を哲学した中世: ヨーロッパ精神の源流』

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神を哲学した中世―ヨーロッパ精神の源流 (新潮選書)

神を哲学した中世―ヨーロッパ精神の源流 (新潮選書)

この3つの対は、プラトンが『パルメニデス』で示した哲学分析の道具なのだそうだ。この3つは、世界を<切り刻む>ための明晰な道具だ。中世の哲学者たち=神学者たちも、この道具で神さまを分析した。

けれど、実はこの3つの対は簡単に矛盾を引き起こし、「互いで互いに切り刻んでしまう」。

神には、矛盾があってはならないにもかかわらず。

神という“仮定”を取っ払ってしまえば、矛盾はきれいに解消する。一元的に考えず、“量”と“大きさ”は違うから比べてはならない、という決まりを導入すればいい。けれど、中世では神はすべての知識の大前提であり、一つで、すべてで、大いなるものだった。

たとえば、おはじきを考える。

現代人ならば、指ではじけばおはじきが飛ぶ、おはじきがほかのおはじきに当たればそのおはじきが動くと、モノとモノの「関係性」で事象を把握する。この関係性は、関数のようなもので記述することもできる。ここに、運動全体を指揮する者はいない。

中世人ならば、これがすべて神の「計画」だと考える。神の計画に従って指でおはじきをはじき、神の計画に従っておはじきが飛び、神の計画に従っておはじきがほかのおはじきへ当たり、神の計画に従ってそのおはじきが動く。私たちは神の計画を忠実に実現しているにすぎない。それでいて、私たちは神ではなく、神に操作されているのでもない。なぜなら、人間は神ではないし、神の部分でもないから(神は分割できないので)。

これだけ聞くと、中世ヨーロッパ人はつまらないことに悩んでたんだなぁ、と思ってしまいがち。でも、中世では神のもと、祈りの戦士・修道士が黒い森を切り開き、大学では論理が彫琢され、民衆に社会的インフラとしての良心が植え付けられ。神学は確かに人を縛ったけれど、時代の力はその分凝縮され、鋭くなり、近代へと噴出していく。何百年ものほほんと暮らしていたがために、近代への扉を打ち破れなかった日本とはだいぶ違う。

ちょっと独断論的な部分が感じられたけど、その分明快で鋭く、もやっとした中世のイメージが多少鮮明になったように思う。たまたま本屋でドンス・スコトゥスの商人観を書いたページを読んで購入を決めたのだけど、全体的に興味深かった。

過去にこういうのも読んだと思うけれど、こっちを先に読んでいればもう少し理解が違っていたかもしれない。

*1:それでいて3つのペルソナをもつ、というのが正直まだよくわかんない!