「世界について」、ほか四篇

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世界について

世界はつねにめまぐるしく動いているので、そこに飛び込むのは結構大変だな。

たとえば私事で恐縮だが、むかし倒産寸前の会社の経理をいきなり任されたときはだいぶ大変だった。

なんせ、毎日お金が出たり入ったりするのに、お金をくれるヒトもお金を払うヒトも、その金額もまったく把握できてない*1。「そんなこともできないのか」と文句を言われながら、現場仕事の合間、自分なりに手形・小切手の支払い管理表を作ったり、月々の支払いの概算をまとめたり、見積もり・受注状況を書類の山からサルベージしたり(もしくは聞き取り調査したり)……で、ようやく要領を得て落ち着いたのは半年経ってからだった*2。まぁ、そのあとすぐ決算で死にかけたのだけれど*3

そうじゃなくても、世界というのは決して待ってはくれない。いろんなルールがすでにあって、それがすごい勢いで運用されている。いわば、大縄跳びのスゴい版だな。

しかも、年々高度になっている。たぶん、僕が加わったときのシャカイより(7、8年前?)、今のシャカイのほうが幾分高度なんじゃないかな。そりゃ、参加に躊躇するし、ニートだって増えるだろう。近世以前はシャカイでの役割が「世襲」されていて、いわば参加への道筋があらかじめ用意されていたことを思うと、かんなりハードだと思う。

ただ、近世以前と違って「世襲」の恩恵にあずかれなかったヒトがシャカイから排除されることは少なくなり、より多くの自由をシャカイのなかで満喫できるようになったことを忘れてはならない。なんというか、世界というのは閉じた・固く・ゆるやかな状態から、開かれた・柔らかく・めまぐるしい状態へと移行しているのだな。

「参加」と「継承」の問題について考えていたら、ふとそんなところに寄り道をしていた。

友人について

A が B の知り合いだということは、以下のように定義できそうな気がする。

  • 「B」を A が知っている
  • 「B が A を知っている」ことを A が知っている

後者はは案外大切だね。「僕はあなたを知っているけれど、あなたは僕を知っていないかもしれない」場合、あなたを「僕の知り合い」だといは言えない。

A が B の友人だというのも、また同じかな。

  • 「B」を A が友人だと思っている
  • 「B が A を友人だと思っている」ことを A が知っている

後者を実感するのは難しい。関西から東京にきた時、知り合いは増えるけれど友人は増えないなぁーと思っていたのは、それが原因かもしれない。ただ、ふと「相手からも友人だと思われている」ような場面があってはじめて「相手を友人だと思う」こともある。「あれ、知らないうちに友人増えたな?」と思うときはそんな感じ。小さな頃は前者――「誰でもトモダチ」という感覚がふつうだったけれど、いつの間にかそういう感覚が鈍っていたみたい。

友人というのは、相手に備わる「属性」ではなく、自分と相手の「関係」が相手の属性として投影されたもの。自分次第でも、相手次第でも変わりうるな。当たり前といえば当たり前かも。

ヒトとヒトをつなげるプロトコルについて

「哲学」「宗教」「帰属意識」「惻隠の情」「博愛」……いろいろあるけれど、ハリントンにとって、それは「マナー」だった。

そういう点では、孔子と同じ感じかも。逆に、老子は「インセンティブ」ベースでモノを考え(自然、道)、「マナー」はそれを歪めるものだと捉えていた。一方、荀子韓非子の流れは「マナー」、ひいてはそれを明文化し罰則を加えた「法」を活用して、「インセンティブ」をコントロールしようぜ、という立場。こうした「インセンティブ」を妨げないように、最小限の「法」でうまくコントロールしようというアプローチは、現代の「自由主義経済」では当たり前になっている。

しかし、「自由主義経済」の父・スミスは、それだけではちょっと心もとないと思っていた。彼が「自由主義経済」と同じぐらい大事だと考えていたのは「共感」であり、両立も可能だとおそらく考えていた。ちょっと楽天的過ぎる? けれど、「自由主義経済」の基本が感情(と勘定)だとすれば、「共感」は必ずしも無関係ではないし、切り離してはならないような気もする。

愛について

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ニッシンヾ(´△`)ノニッシン

互いが互いに心の境界がない関係を「愛」だとすれば、たぶんみんなを「愛」するのは難しい。なので、あんまり背伸びせずに身近なところからでいいんじゃないかな。

最近はニュースやら何やらで見ず知らずのヒトの悲惨な状態をひっきりなしに見聞きする。それにいちいち「R.I.P」と言うのも大事かもしれないけれど、ちょっと足元にも注意を払ったほうがいい気がする。いちいち共感してたら、共感が足りなくなるぞ。いや、共感していない自分が後ろめたいのか。共感の同調圧力を感じているのかもしれないし、共感対象の広さの見せびらかしあいに辟易としているのかもしれない。わしは降りたよ。わしの共感は有限です。

しっかし、共感が有限となると、無限の繋がりを実現する「自由主義経済」との断絶は深まるばかりだな。いやむしろ、自由主義経済こそが一切の境界をもたない「博愛」なのか。まぁ、他者を手段化しておいて「博愛」もクソもないが。せめてそこに「マナー」があれば救われるのだけれど。

*1:まぁ、そもそも社員の名前も覚えていない状態でそのようなことをする羽目になること事態がおかしいのだけれど

*2:その間、闇金にお金借りそうになったり、いろいろ面白い話もあるのだけど、それはまた気が向いたら。今振り返ると、世間知らずだったなぁ……(今もだけど!)ってすごい思う

*3:「もう相手できません」なんて税理士に逃げられるし。まじ申し訳ない